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大河ドラマ「どうする家康」秀頼はどうする?

本記事は、令和5年の大河ドラマの、丁度大阪冬の陣の直前辺りでUPしています。

私(松山)は尾張の人なので、どうしても三河の家康よりも、尾張のプリンス・秀頼の方を判官贔屓してしまう。右大臣豊臣秀頼は、御祖母が戦国一の美女お市の方、祖母の兄が織田信長、父親が豊臣秀吉、祖父が浅井長政、義父が徳川秀忠、義祖父が徳川家康、子の豊臣國松に至ってはご先祖が三英傑の直系血族という将にプリンスに相応しい「戦国の貴種中の貴種」だったりします。

ただ貴種というだけではなく大阪冬の陣では、包囲した東軍を大阪城もろとも「逆水攻め」するという、太閤秀吉ゆずりの戦術は、将棋でいう「敵の攻め駒を攻める」にも通じ、侮り難しの印象を受ける。やることのスケールがでかいし、秀頼の身長は空条承太郎よりも2cmでかい(197cm)。もしも国崩しの大筒がなかりせば、家康もどうやって攻略したのだか…。西軍勝利の筋書きも無かったとは言えないと、記しておきたいところ。

さて1611年(慶長16年)3月27日、家康と秀頼の二条城会見の前夜、家康は思った筈。「まさか右府様(豊臣秀頼)、今晩あたりお忍びで来られるか?」
秀吉に内々に「電撃訪問」された昔を思い出して、想定はしていたと思う。
家臣一同にも「あの太閤の子だからあり得る。心の準備だけはしておけ」もしかするとこんな事を言い含めていたのかもしれない。
秀頼はそうすべきだった。腹を割って酒でも飲んで「義理の祖父」家康と語り合っておくべきだったと思う。亡き父秀吉の思い出話を、大叔父の信長の話を、祖父浅井長政の話を、戦国の生き証人家康からよく聞いておくべきだった。そうすればまた違った歴史になったのかもしれません。

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