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歴史

狗奴国首長墳発見


皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
魏志倭人伝に登場する狗奴國の首長墳は尾張國の旧樂田村、羽黒村にありました。

三ツ塚大塚古墳.jpg

まず目を見張るのが大きさです。前方後方墳で日本最大は、奈良県天理市の西山古墳190mが最大とされてきましたが、墳丘長はその倍以上に達します。
前方後円墳を含めても、仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐ、全国で3番目の大きさになります。

日本古墳ランキング(全長)
①大山古墳(大仙陵古墳/仁徳天皇陵) 約525m(大阪府堺市)
②誉田御廟山古墳(誉田山古墳) 約425m(大阪府羽曳野市)
三ツ塚大塚古墳(狗奴國首長墳) 約390m(愛知県旧樂田村・羽黒村)
④上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳) 約365m(大阪府堺市)
⑤造山古墳 - 約350m(岡山県岡山市)
⑥河内大塚山古墳 - 約335m(大阪府松原市・羽曳野市)

破壊された狗奴国首長墳

墳丘は完全に削平されています。同じく削平された巨大古墳として、令和7年3月1日、奈良市の佐紀古墳群で、平城京造営の際に削平されたとみられる全長約200メートルの巨大前方後円墳の痕跡が見つかったと奈良市が発表しました。

佐紀池ノ尻古墳.png
よんななニュースさま記事より画像引用
https://www.nara-np.co.jp/news/20250302212143.html

奈良市の村瀬陸学芸員によれば「完全に消滅した全長200メートルもの古墳が見つかるのは全国初」としますが、390mの古墳消滅はそれを上回ります。狗奴国が滅びたか否かは、空白の四世紀のため、主に「滅亡・吸収説」と「存続・発展説」に分かれ確定していませんが、墳丘は完全に削平されていることから、邪馬台国と抗争し、滅亡したとみるのが自然と、この記事では結論付けます。

楽田村の七大古墳群

楽田村七大古墳群.png
愛知県の楽田村は、百舌鳥・古市古墳群に次ぐ、国内2番目の規模の古墳密集地と記事主は解しています。例えば小牧長久手の戦いで、太閤秀吉の本陣にもなった楽田城の周囲には20基以上の前方後円墳が密集しています。(※記事主の個人的見解です)
城山古墳群.jpg

その楽田の七大古墳群のなかで、三ツ塚・長塚古墳群だけが異質なのです。三ツ塚・長塚古墳群.jpg

視点を西の方に移し、昭和50年の国土地理院空中写真で確認したところ、発見に至った次第です。後方部の大きさが、隣の中学校(記事主の母校です)の敷地とほぼ同じ面積ということが、おわかり頂けると思います。三ツ塚長塚墳群.jpg昭和50年国土地理院空中写真.jpg国土地理院陰影起伏図.png
国土地理院陰影起伏図

全国Q地図赤色立体地図.png
全国Q地図赤色立体地図

地名は「三ツ塚」「林吾塚」

地名から考えて、巨大古墳が複数、近辺にあるはずです。
…ありました。

三ツ塚古墳群.jpg

ところで追分古墳ですが、記事主の中学の通学路でした。まさか三年間通っていた追分の道筋が狗奴国の巨大古墳の前方部だったなんて!
追分古墳.jpg
前方後方墳の前方部が、きれいに追分になっている事例は検索しても出てきませんので、日本で唯一ここだけかもしれません。

考察

狗奴国の首長墳墓は前方後方墳が有力で、しかも日本で3番目の大きさのものを含む、数多くの300m級~400級の痕跡が楽田村、羽黒村にある事実は、①狗奴国は濃尾平野に実在していた疎明になります。これを間接事実として②邪馬台国は関ケ原の西側(畿内説)が有力と推認されます。

歴史は勝者が作る
『記紀(古事記・日本書紀)』には、狗奴国に関する記述が一切ありません。ということは邪馬臺(ヤマト)国、もしくは黎明期の大和朝廷が狗奴国を武力で打倒した後、その威光を消し去るために、象徴である巨大前方後方墳を物理的に破壊し、同時に記録から完全に消去したことになります。
(大和朝廷は、けっして嘘はつきませんが、第一回遣隋使を無かったことにする等、全てを書き残すわけでもありません)
「東西二大国家」時代が古代史に出現
3世紀から4世紀にかけての日本には、邪馬台国(あるいは黎明期の大和朝廷)の「大和連合国家群」と東海・北陸の「狗奴国と同盟諸国」という、巨大な二つの勢力が並立していた。

軍事力では狗奴国が勝る
現在の通説では、3世紀の日本における最大級の墳墓は奈良県の箸墓古墳(全長約280m)とされており、これが「黎明期の大和朝廷の象徴」と位置づけられています。
これを遥かに凌ぐ400m級以上(仁徳天皇御陵・応神天皇御陵に匹敵する規模)の首長墳が尾張楽田村に存在する以上、歴史は以下のように書き換わります。

1. 当時の国力は、墳墓の大きさと労働力(富と動員力)に直結
a.400m級の墳墓を築くには、当時の畿内勢力を圧倒する経済力と軍事力、そして数万人規模の民を動員する統治能力があった。
b.卑弥呼の邪馬台国連合が日本をリードしていた」という前提が崩れ、「狗奴国こそが当時の日本列島で最強の超大国だった」

2. 東西巨大陣営の激突
当時の日本は「平和裏な統一国家の形成期」ではなく、「覇権をかけた大規模な内戦の時代」として定義し直される。

3. 古代関ケ原の戦いー歴史は韻を踏むー
東西の大規模な激突は、壬申の乱、関ケ原の戦いにも重なり、かの地が(プレ壬申の乱・プレ関ケ原の合戦として)主戦場になった可能性が高いと解します。軍事力に劣る邪馬臺(ヤマト)軍には極めて有能な兵法家が存在し、不破の関を先に押さえ、強固な陣地や兵站のシステムを構築し、二正面作戦を採用するなど、戦略的に勝利したと思われます。(…なぜわかる?それは歴史の「韻」からわかるのです)

  • 古代の要衝「不破の道」の封鎖:壬申の乱で大海人軍は、戦略的要衝である関ケ原(不破)をいち早く占拠し、近江朝廷軍が東国へ進出するルートを遮断。同時に東国からの援軍を安全に迎え入れる体制を整えましたが、これは古代の狗奴国と大和朝廷軍の戦いの記憶が当時は残存し、戦訓を活かしたものと解釈します。戦訓が残っている以上、邪馬台(ヤマト)国と大和(ヤマト)朝廷には連続性が認められるとしなければなりません。
  • 大和・近江の二正面作戦:大海人軍は、本拠地の近江朝廷を攻める北陸・東山道軍と、旧都・飛鳥を取り戻す大和方面軍の二手に分け、敵を分散・混乱させましたが、やはりこれも古代の戦訓を活かし、大海人軍は古代とは逆方向(東から西)に攻め入ったものと思われます。

このように、壬申の乱をみれば、当時の指揮官の取った、対狗奴国への戦略が見えてくるのです。大和朝廷による巨大古墳破壊の痕跡は、大規模な会戦(野戦)の末に滅ぼされたことを示唆しています。長期的攻城戦の末の和解でもなく、ミッドウェイの空母4隻撃沈のような、短期決戦による、決定的な敗戦だったと思われます。

火の鳥太陽編.png
手塚治虫先生「火の鳥太陽編」より画像引用。屈指の名作。大人になった今読む方が面白い。

大海人皇子も戦訓にしたと想定される、壬申の乱から遡ること約400年前の対狗奴国戦術について検討します。邪馬臺(ヤマト)軍の極めて有能な兵法家とは、いったい何者なのか?
魏の使者「張政」の助言による可能性が高いと考えます。三国志において、関所(要塞)を封鎖または確保し、そこを起点として複数の方面から魏への侵攻を試みた代表的な事例は、諸葛亮の北伐に見られるからです。
蜀漢が国力の差を補うために、関門という地形を利用して魏軍の移動を制限し、複数のルートから一度に侵攻する「陽動」「各個撃破」の戦術を好んだことは、三国志の読者なら誰もが知るところであって、いわんや魏の使者「張政」は同時代の人です。

悪い孔明.jpg横山光輝先生 -GR- THE ANIMATION 「地球が静止する日」より画像引用。「パリピ孔明」も素晴らしいが、今川監督の「悪い孔明」はキャラクターが鮮烈に動く。

東西の激突の後は、「平和裏な統一国家の形成期」に入ったと思われる。
令和書籍の「記紀が伝える日本統ー」の記述を引用します。
大和朝廷が成立した当時の国内の文字資料は見つかっていませんが、「日本書紀」は、神武天皇御即位の後、第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの間に列島内の同盟政策が進められたことを記しています。
「古事記」には、かなり詳しい系譜が書かれていて、皇室が各地の豪族と婚姻関係を結ぶことで同盟政策を進めていったことが反映されたものとの見解があります。

東西文化の原型の形成
日本は西と東で文化が大きく異なります。イングランドとスコットランドにも似た、同一の島に、かくも異なる二つの文化・二つの生活習慣の共生は、邪馬台国と狗奴国の対立構造を現代までスライドさせると、様々な対比が見えてくる。

モチの形から、ダシ、カレーの牛肉・豚肉といった食文化から、人間関係までいちいちあげるとキリがありません。

東西文化の違いの一例。糸谷哲郎挑戦者応援のために自費でハワイに駆けつける関西棋士たち。関東の棋士には絶対にありえない関西独特の文化。目に見えない集団の力(関西文化の力)もあって森内俊之竜王(関東棋士)との初戦を制し、結果として竜王位も獲得した。【2014年の第27期竜王戦第一局ハワイ対局】
糸谷竜王.jpg封じ手.jpg
三文堂のひよこ様BLOGより画像引用。ネットの解説生中継で(関西棋士の)「アロハ―!」の登場はインパクトがあった。
https://kishikawa.doorblog.jp/archives/40782102.html

「壬申の乱」が再解釈される 
狗奴国滅亡から400年後の壬申の乱(尾張・美濃の兵力を掌握した天武天皇が近畿を制圧した事件)は、かつて滅ぼされた狗奴国の地(濃尾)の力を借りた、古の時代のリベンジ(後年の薩摩のチェスト関ケ原・長州の「(倒幕の)時は来たか?」「まだ早い」→260年後「時は来た」会津藩出身の抜刀隊のようなもの)でした。歴史の押韻です。
考古学的な「空白の4世紀」の解明
4世紀は記録が乏しく「空白の4世紀」と呼ばれますが、その真相が「大規模な内戦と、敗者の文化・古墳・記録の消却」であったと説明がつきます。 
出土品のミッシングリンクが埋まり、なぜ東海地方の優れた土器文化や鉄器文化が突如として変質したのか(あるいは途絶えたのか)の答えは「王朝滅亡」となります。
結論としての歴史教科書の記述
もしこれらが考古学的に証明されれば、山川の歴史教科書は以下のように書き換えられるでしょう。
「3世紀、濃尾平野には邪馬台国を圧倒する規模を誇る狗奴国が存在した。その都は尾張国の旧楽田村にあった。しかし4世紀末、近畿を拠点とするヤマト朝廷との戦争に戦略的敗北。勝者となった大和朝廷は、狗奴国の巨大墳墓をことごとく破壊し、その存在を歴史から消去した。我々が知る『日本』の形は、古代文明の破壊と再構築の上に成り立っている。」

…ということになりますが、皆さん、こんな①~⑧の史観が受け入れられると思いますか?とてもじゃありませんが受け入れられることはないのです。狗奴国首長墳は、引き続き無かったことになります。
なぜなら日本中、どの家庭の押し入れにも木乃伊(ミイラ)が仕舞ってあるからです。ミイラのおかげで家の平穏は保たれているのです。これにはタダのひとつも例外がありません。日本国もその例外ではないのです。我々のご先祖様がそのように選択された以上、その意思は尊重しなければなりません。今の平和そのものの日本の礎はこの意思にこそあります。
押し入れのミイラにつき、ただ放置するのは許されず、綿密な環境管理と、ときには思い出してあげることが必要です。この記事を読んで頂いた皆様にも、ふと古代に思いをはせてもらえると、古代の人々も浮かばれ、現代の平和も保たれるのではないでしょうか。
(歴代狗奴国首長と人々の魂が、楽田と羽黒の地で静かに安んじられる=(イコール)日本の平和を、記事主は願います。)

石棺の行方

周囲には、もっとたくさんの古墳境界が見つかるはずです。中学校の隣の起(おこし)集落にも大型古墳があります。
起古墳.jpg

羽黒村の高橋古墳群のひとつ、天燈塚古墳は円墳とされてきましたが、東側をみると後方部がありますので、狗奴国の前方後方墳と、この記事では結論付けます。(高橋古墳群の他の4基も前方後方墳なのでしょう)。そしてさらに東方にも400m級の前方後方墳(寺海道古墳)が確認できます。
天燈塚_寺海道古墳.jpg天燈塚古墳からは家形石棺が出土しています。石棺の両側に壷や勾玉の彫刻が、蓋の上面には蛇行状の溝が施されていました。一部が羽黒小学校の校庭に保存されています。狗奴国の明確な唯一の出土物かもしれません。
http://obito1.web.fc2.com/inuyamaminami.html

天燈塚古墳に石棺があったということは、三ツ塚大塚古墳には、より巨大な石棺があったはずです。狗奴国首長墳の石棺・石室はどうなったのでしょうか?
ヒントは、やはり地名にあります。

石塚.jpg大塚前方部の東端に「石塚」の地名があります。削平された墳墓の石棺は、おそらくこの地に打ち捨てられ、地域の貴重な採石場になったのではないでしょうか。石棺・石室・葺石が山のように積み上げられました。石塚は1700年の時を経て跡形もなく消え去りましたが、土地の記憶は残されていると解します。

離宮の場所について

記事主が首長なら、先祖代々の墳墓を見渡すことができる、星印の辺りに離宮を築きます。王宮には高い土壇や建物があり、歓待はここで行われたに違いありません。同盟諸国からやってくる首長や使者にとって巨大古墳群はさぞ壮観だったことでしょう。残念ながら昭和には既に採石場として削られています。
昭和の空中写真を見る限り、他にも大小数限りなく多くの痕跡があり、狗奴国の強大な国力と、この地域の豊かさが垣間見えます。

王宮位置.jpg

王宮および狗奴国集落の場所について

青塚古墳群の調査の際、青塚古墳の南西(樂田大圓)に狗奴國の環濠集落の痕跡を見つけることができました。非常に奇麗な円形がみっつ並んでいます。

大圓三環濠集落01.jpg
大圓第1環濠集落
仮定の話.png

したがって、付近を捜索すれば、より巨大で奇麗な円形をした環濠集落が見つかるはずです。
…北の方に画面をスクロールすると10秒で見つかりました。昭和36年の国土地理院空中写真には、北西方向に3重の環濠の痕跡が奇麗に残っています。中心地は現在の山の田公園の北側(イズミック 中部統合物流センターさん・ロックペイント㈱ 犬山工場さんの辺り)と思います。上舞台遺跡.jpg上舞台遺跡の名称は地名から呼称していますが、現在では工業団地となって、整地されていますので、発掘調査は非常に難しいと思われます。なお記事主が参加した「大縣神社北側の神宮寺跡の現地調査・勉強会」のときに先生方から聞いた話によると、この工業団地には奈良時代~鎌倉時代に勝部(かちべ)廃寺があったということです。どうしてここに大規模寺院が?と疑問に思いましたが、狗奴國の王宮・環濠集落があったとすれば納得ができます。「石山本願寺→大阪城」「江戸城→皇居」のような居ぬき物件だったというわけです。

遺跡の成立時期ですが、平塚第2号墳の北側には多くの方形周溝墓が確認できますので、弥生時代から続く遺跡ということになります。
方形周溝墓.png

一枚の画像に纏めようとしたところ、めまいがしました。
楽田羽黒遺跡.jpg
環濠の半径700mどころではありません。仁徳天皇御陵級の巨大首長墳上舞台大塚古墳(墳丘長600m以上)も見つかりました。500~600m級の巨大古墳発見となると、1872年の仁徳天皇御陵崩落時に調査に関わった堺の絵師、柏木貨一郎さん以来、154年ぶりということになります。

環濠の中に墳丘があるのを見て「これはいったいなんだろう?」と思いましたが、どうもそれが狗奴国の文化のようです。大圓の環濠集落の内部にも、やはり墳丘があります。記事主が思うに、あの世と、この世が身近なのかもしれませんし、もしかするとお寺に門前町お城に城下町、マクロスの周囲にマクロス・シティがあることと同質なのかもしれません。
大圓三環濠集落.jpg…ということはですね、お隣の朝日遺跡にもありそうですね。ちょっと探してきます。

中型のコマ塚.png中型コマ塚.png
…普通にありました。皆様も、特に地元の方は土地感が働きますので、どうかお探しください。

地蔵池

上舞台大塚古墳に話は戻ります。前方部の東端に環濠があります。これは地蔵池といいます。5歳のときに遊びに行った石田君の家の近所の地蔵池がまさか狗奴国の巨大首長墳・集落環濠の一部だったなんて、今初めて知りました。古墳時代の環濠集落の環濠が現存する例として、萱生(かよう)環濠集落・稗田(ひえだ)環濠集落がありますが、地蔵池の場合は、日本唯一、古代そのままの原風景として現存している点で、国指定史跡に指定されてもおかしくありません。1800年に渡って大切に保存して頂いた周辺集落の先祖代々様に頭が下がります。心から深く感謝申し上げます。上舞台環濠集落に古墳時代から残る数少ない現存の痕跡は、1800年間生き残った、この地蔵池だけかもしれません。そして地蔵池だけがなぜ生き残ったのか。それには意味があると記事主は解しています。

令和の現在、地蔵池は干上がっています。仮に発掘調査をするならば、必ず狗奴国の土器、そして呉の孫権の金印等、呉との関係性を示す何らかの遺物が出てきます。それが狗奴国存在の考古学的証明となるのでしょう。記事主が狗奴国の首長なら滅亡寸前、ソロモンのドズル=ザビのように正妻および室、そして子らを東方に脱出させる際、回廊のように伸びる上舞台大塚の上を通ります。前方部東端丘上から見送ったあと、迫りくるヤマトに鹵獲される前に、金印他を、真下の環濠に向けて次から次に投げ込みます。(勝てば回収すれば済む話ですから)

記事主ですら気付くのですから、当時のヤマトの人たちも当然知っているのです。大塚古墳完全破却の際に土砂は全ての環濠を埋め立てたと思いますが、現地蔵池だけは意図的に残したのでしょう。今も昔も、考えることは皆同じです。

しかし令和の現在に、1800年前と同じように、また環濠の見分・調査をするのは、いかがなものでしょうか。しないほうが鹵獲されずに池の地中に眠っているに違いない金印にも、現代の平和のためにも良いように思います。記事主としては、昭和の頃のような水量で保存を願う次第です。
地蔵池.png
昭和50年、国土地理院空中写真の地蔵池。池の南北には環濠の境界痕跡が連なります。

狗奴国の国力は記事主のキャパをも遥かに超えています。三ツ塚大塚古墳も最大で468mと、応神天皇御陵よりも巨大な可能性があります。地中レーダー探査をしてみないと、なんとも言えませんが、仁徳天皇御陵の巨大さは一説によると600m級とされますが、その巨大さの理由は、狗奴国首長墳の500m級や、600m級を凌駕するため必要に迫られての矜持だったということになり同時に、邪馬臺(ヤマト)国と大和朝廷の連続性の疏明にもなります。楽田村と羽黒村の7大古墳群は失われたものも含めると200基近くになり、規模はもちろん、墳丘の巨大さにおいても、西の百舌鳥・古市古墳群に匹敵する東の巨大古墳群となります。古墳群は沼です。調べれば調べるほど深みにはまります。468m.jpg

追伸

勝部廃寺.jpg勝部廃寺の場所がやや不明とされていますが、昭和32年の国土地理院空中写真で検証すると、上舞台大塚古墳後方部跡にあったのかもしれません(古代の居抜き物件)。強固な地盤により巨大建築の重量を支えるのに適し、自然災害にも強い場所だからです。近辺の地名に残る「上舞台」ですが、こうして空中写真で確認してみると、土地が舞台状になっていることわかります。

上舞台大塚古墳01.jpg上舞台大塚古墳02.jpg上舞台大塚古墳03.jpg

仁徳天皇御陵との比較
世界一の墳丘長.png
古代メソポタミアのジッグラト(エ・テメン・アン・キ、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟と共に、世界三大消滅霊廟に入ったとしても遜色ない規模といえる。

曾祖父の眼力の続き

https://www.rescue-119.jp/news/archives/1784

↑こちらの記事のスピン・オフになります。

曾祖父の眼力

これが先に述べた、古墳時代研究の歴史上の価値(先駆的事例)に相当するのです。すなわち、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③文字記録として後世に残した日本で最初の人物は松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)だったことを意味します。塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていましたが、これまでに学術的検証はされていません。そのあまりの先駆性は記事主も驚嘆しますが、「コマ塚」の記載による、墳丘形状の確認の要件は満たされているとしても、
①墳丘(人工の盛土か、自然の墳丘か)の確認
②埋葬施設(石棺)の存在、内部構造の調査
③遺物(年代測定の手がかり)
④測量調査(緯度経度の特定、精密な墳丘図の作成)
⑤発掘調査
⑥科学的年代特定
⑦考古学的な型式学的研究
以上①~⑦に加え、⑧学会におけるプロセスを踏んでいません。


学術的に検証されることがなかったのは上記や、その他さまざまな理由があると思います。大正5年の一般の人に、現代の要件をそのまま求めるのは、…と思わなくもありませんが、しかし考古学には長年積み上げてきた科学的分析によるフォーマットがあって、それこそが永続性信頼性そのものなのです。これは法律とよく似ています。現代の民事裁判における契約や財産に関するフォーマットは、2000年前のローマ時代に原型ができていたものが、膨大な判例という歴史的な積み重ねを経て条文形成されたものです。民法192条で例えると即時取得の要件
①動産であること
②取引行為であること
③平穏・公然であること
④善意・無過失であること
⑤占有を開始したこと ※判例上、占有改定は不可。 

※推定される要件(法律上の推定)
・平穏・公然・善意: 186条1項により、占有者はこれらの要件を満たしているものと推定。
・無過失: 最高裁の判例により、188条の「占有者が占有物の上に行使する権利は適法に有するものと推定される」規定を根拠に、無過失も推定(最判昭41.6.9)。
口頭弁論において、これらの要件が尋問により証拠として採用されず、即時取得が裁判長に認めてもらえない場合、 敗訴とはいかないまでも、裁判長の心証は良くはならないでしょう。
思うに、考古学者は一人一人が、歴史の弁護士であり、検事であり、裁判官でもあるので、
(以下40行中略)
…民法風の言い回しならコマ塚」の記載によって、墳丘形状の確認がされたものと推定される’のです。これで十分です。きっとあの世の曾祖父も理解し、納得していることと思います。

「男の勝負は亡くなってから」(西岡常一)

真意が理解されるまで110年かかりましたが、結果的に巨大古墳群・巨大環濠集落発見による狗奴国の疎明と、邪馬台国の近畿説の推認にまでつながっているです。「コマ塚」はたったの三文字ですが、三文字をあなどってはなりません。忠左さんの「創意工夫に基づく三文字はビッグバンの核(コア)に成り得る」という後世に残る好例になったと解します。

  • Category:歴史
  • Author:shuccho-shaken

豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、巨大古墳群発見ー


皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
織田信長の領有を経て、小牧長久手の戦い太閤秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、

①楽田城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には最大で墳丘長約120mにも及ぶ城山古墳群(群集墳)があった。
楽田城は複数の巨大古墳を切り崩し築造されており、戦国時代の城郭遺構の下に古代の古墳群が眠っている形となっている。 
七大古墳群のある楽田村は、百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、日本で2番目の古墳密集地。
④上記七大古墳群のうち、隣の羽黒村にも跨る三ツ塚・長塚古墳群には500m~級の前方後方墳が1基、350~470m級の前方後方墳が4基、300m級複数基、270~280級複数基、260m級~はたくさん存在し、この地に狗奴國はあった。

以上のように、この記事では結論付けます。(なお記事主は、後にも述べる要件や手順を踏んではいません。さらに古墳群の存在を実証するためには、発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえることを、予め記載しておきます)

楽田村七大古墳群.png(参考)青塚姫之宮姫之宮南蓮池三ツ塚・長塚古墳群

松山鶴吉調査の図.png
すべての始まりは大正5年、記事主の曾祖父による青塚古墳群調査の圖でした。曾祖父の調査がなければ、記事主による発見も有りません。
まずは青塚古墳群の東側から検証をはじめます。結論から申し上げると青塚古墳群は前方後方墳と、前方後円墳のせめぎ合いを確認することができる、古代史の重要な地域とわかりました。
・北側に狗奴國系の前方後方墳を複数基発見しました。昭和30年代までは境界線は残っていましたが、楽田工業団地の造成にともない、完全消滅してしまいました。
・巾集落は、武智屋敷古墳太吉屋敷古墳、の両前方後円墳を中心に形成されたとわかりました。記事主の親戚や友人、知人も巾集落に住んでいますが、なぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、疑問でしたが、まさか古墳の上にまとまって住んでいたとは。

コマ塚古墳.jpg青塚古墳群青塚以外は全て小墳(倍塚)と解されてきましたが、記事主による検証調査の結果、中型~大型の前方後円墳が複数基存在し、前方後方墳も数多く混在しています。

大正5年の調査図に「コマ塚」とありますが、はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。昭和24の米軍撮影空中写真を確認すると、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのかと。それと同時に直感しました。「青塚古墳群調査圖って、実は郷土史にとっての価値だけではなく、古墳時代研究全体においても歴史的価値のある図ではないのか」と。
コマ塚.jpg
前方後方墳の研究が本格的に始まったのは昭和22年の、梅原末治博士と島根大学の山本清武博士による島根県・金崎一号墳の発掘調査とあります。研究論文では、昭和37年に発表された明治大学の大塚初重博士「前方後方墳序説」のタイトルが事実上の初出です。
要するに大正5年当時は前方後方墳という学術用語はなかったのです。私費による所有権に基づく青塚古墳群の発掘調査当時は明治維新から50年も経っておらず、かつ帝国大学令公布からまだ30年あまりの考古学の黎明期であって、特に前方後方墳の形態的特徴や、もちろんその意義(狗奴国との関係性)も明確に理解されていませんでした。
そのような限られた知見のなか、「コマ塚」という表現によって、単純化・記号化することにより、「四角い後方部」と「長細い前方部」の形状を既存の語彙力を使って写し取り、第三者に伝えようとする松山鶴吉の意図が読み取れます。当時誰にとっても馴染みのある「独楽(コマ)」に例える単純化の技術により、学術用語がないハンデを克服しています。また複雑な測量図面を共有できない大正時代において、「コマのような形」という記号化は、第三者の脳内に瞬時に共通のイメージを形成させる強力なツールといえました。

曾祖父の眼力

これが先に述べた、古墳時代研究の歴史上の価値(先駆的事例)に相当するのです。すなわち、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③文字記録として後世に残した日本で最初の人物は松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)だったことを意味します。塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていましたが…
※ …以下が、やや長くなりましたので、別サイトに纏めておきました。読み飛ばしてOKです。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1822

※なお、曾祖父の少年時代は天保年間から流行った鉄胴型や、唐コマが主流で、明治の頃には木製・竹製から、ブリキ製に移り変わったそうですが、いずれにせよ、この形のコマがなじみ深かったものと想像します。


閑話休題。平塚古墳群の痕跡は消滅してしまいましたが、その地名は「平塚・北平塚・上平塚・中平塚・下平塚」として、今も残っています。地名はその土地の記憶です。平塚の両墳は、松山鶴吉の調査図の範囲よりも北側に位置していますので、後述の三ツ塚古墳群の領域とした方がいいかもしれません。

平塚古墳群.jpg
平塚第1号墳跡は現在は株式会社コーミソース工場・カルビーロジスティクス 中部センターに、平塚第2号墳跡は武田製菓本社工場・お菓子の城になっています。

両屋敷古墳.jpg太吉屋敷古墳は青塚古墳よりも巨大古墳と判明しました。

巾下古墳群01.png太吉屋敷古墳後円部.png
現在の太吉屋敷古墳南側。道路上に後円部境界の痕跡がよく残されています。向こう側には記事主の親戚の家があって、なじみ深い道です。

巾下第2号墳01.png
武智屋敷古墳は北側の境界が奇麗に現存しています(昭和52年空中写真)

巾下第2号墳02.png
武智屋敷古墳 Googlemap空中写真(2026)


・青塚古墳のすぐ南東に調査図記載の古墳(コマ塚)が見つかりました。調査図にはコマ塚が二回登場しますが、このこともコマ塚=固有名詞ではなく、古墳形状を指し示す証明となります。地名から一色浦古墳とこの記事では呼称します。形状から狗奴國系の前方後方墳と思われます。

一色浦古墳.jpg先述のと同じく、記事主の同級生が、一色浦集落に住んでいますが、やはりなぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、昔から疑問でしたが、古墳の上にまとまって住んでいたとは…。古墳の遺構は周囲の水田よりも少し高くなっているため、一色浦集落において、貴重で(対水害・地震にも安全な居住地/微高地)と解します。

一色浦古墳.png
現在も残る狗奴国の痕跡。一色浦古墳後方部(南側)境界


続けて、大正五年の調査図の西端の亀塚について検討します。この集落は大円(だいえん)といって、楽田村の西の端にあります。記事主は前からこの集落が気になっていました。というのはここから徒歩で小学校まで通う同級もいたからです。

徒歩通学.jpgこの通り、青塚集落よりも、さらにもっと遠いのです。通学路ですから、最短距離を歩くわけにもいかず、子供の足で1時間半以上かかります。隣の行政区、小牧市の小学校に行った方が余程近いのです。小学生時代の記事主にとっては見たことも聞いたこともない世界が大円なのです。その大円ですが、昭和23年の米軍撮影空中写真で地図で確認すると、狗奴国系の前方後方墳らしきものがありますので、(コマ塚と同じく形から)こちらが石亀塚および亀塚と結論します。石亀塚が「石亀が首を伸ばした形状」で、亀塚は「甲羅の形」というわけです。他にもたくさんの古墳がありますが、楽田村の境界の外側なので、調査図には記載されていないと思われます。

大圓三環濠集落.jpg昭和23年の国土地理院空中写真の亀塚です。
亀塚.png

樂田大圓(大円)の地名の由来になったと思われる大きな円形の土地境界狗奴国の環濠集落の痕跡で、まず間違いないと思います。亀塚のある、第1号環濠集落からは、東南にのびるうねうねした道桝形が3カ所確認できます。外敵の侵入に備えた当時の道の痕跡なのでしょう。1800年前に桝形があったのは驚愕するしかありません。いわゆる「倭国大乱」の間接的証拠楽田村の大圓環濠集落遺跡にもあったことになりますが、現在は耕地整理され、土地境界は完全に失われています。

環濠集落.png
高槻市・島本町地域NEWS 号外NET様HPより画像引用
https://takatsuki.goguynet.jp/2021/02/25/amaiseki_koen_2jikaien_area_report/

仮定の話.png桝形.jpg防御としての「桝形(ますがた)虎口」は、主に戦国時代末期(16世紀中頃〜末期)、特に織田・豊臣政権下で急速に普及・発展した城郭の防御構造ですが、狗奴国邪馬台国の時代にすでにあったとなると、1300年時代を先取っていたことになります。しかし桝形がなぜ織田・豊臣政権下で普及したのでしょうか? …もしかすると、集落に立ち寄った織田方の武将の誰かが、尾張楽田村の大圓環濠集落遺跡から着想を得たことも十分考えられます。歴史のロマンですね。

戦国時代の大圓集落.png
Googleジェミニさんに頼んだら想像図を作ってくれました。

大円第1と、東隣の第2環濠集落の南側にも、たくさんのコマ塚と、小型の環濠集落を見つけることができました。(第2環濠集落は図が煩雑になるので円形を省略してあります)
大圓環濠集落南.jpgぱっと目につくだけでも、22基のコマ塚が確認できます。周辺には100基くらいあると思います。前方後円墳は見当たりません。
環濠集落も他にたくさんありそうです。青塚古墳のすぐ南側もおそらく、元々狗奴国の環濠集落だったことが、土地境界からみてとれます。

青塚古墳群再考

青塚古墳群は、青塚古墳および、青塚古墳を盟主とした小さな倍塚で構成されていると考えられてきましたが、どうも前方後円墳は青塚古墳武智屋敷古墳太吉屋敷古墳の三基のみで、大正5年の調査図の青塚古墳より西半分も含め、すべて狗奴国系のコマ塚で間違いないと思います。というのは調査図にある、耳塚や、花塚、九器塚、その他の当該箇所を探しても、前方後円墳独特の円形+台形の境界が見つからないのです。(逆にコマ塚型の境界らしきものはアチらコチらに散見することができます。)

見当たらぬ、円形と台形の境界.jpg

記事主が小学生の頃、校外学習の一環で青塚古墳を訪れましたが、当時は青塚古墳西側の竹やぶに分け入ることができました。白っぽい円墳状の倍塚がふたつ並んでいましたが、やはり墳丘は削平された状態かつ、まん丸ではなく、角の取れた縦長の、確かに耳のような形状と色をしていました。後年になって見聞した、幾何学的な大和朝廷の円墳・倍塚とは明らかに異質でした。後述する現存の長塚古墳の後方部に近い不規則な形という印象です。

墳丘は削平されても境界というのは1000年を経ても、どこかが残ります。戦国時代のお城と同じです。必ずどこかに痕跡は残ります。完全消去は不可能に近いと解します。
ということは、大和系の青塚古墳群というものは実は存在せず、楽田山の長塚から三ツ塚を経て、平塚から大円、そして大円の南側までが、広大な狗奴国の古墳群なのではないでしょうか。ヤマト系の三基は、まるで江戸時代の「西国外様大名のなかに絶妙に配置される親藩・譜代大名」のように記事主にはみえます。青塚古墳武智屋敷古墳太吉屋敷古墳という3基の巨大古墳築造の目的のひとつは、王朝交代を元狗奴国の領民たちに示すための象徴だったとこの記事では結論付けます。

青塚古墳群再考.jpg

青塚古墳群は以上で、続けて姫之宮古墳群姫之宮南古墳群蓮池古墳群 です。

姫之宮古墳群.jpg昭和36年国土地理院空中写真より、令和8年 記事主作成姫之宮古墳群姫之宮南古墳群、及び三ツ塚・長塚古墳群

姫之宮南古墳群.jpg姫之宮古墳群と蓮池古墳群の中間にも15~16基見つかりました。(姫之宮南古墳群)そのうち10基のみ境界作図しました。次から次に見つかります。古墳時代のこの地域(楽田)の支配者、そして支える被支配層も一体となって相当長期間にわたって繁栄していたことが伺われます。

蓮池古墳群.jpg
蓮池古墳群 特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク様HPより画像引用
https://niwasato.net/home/archives/7336/

三ツ塚・長塚古墳群.jpg全国的にも希少な前方後方墳の古墳群です。空中写真で三ツ塚・長塚古墳群を見たとき、衝撃を受けました。明らかに楽田の他の五つの古墳群とは異質・異文化・異形態で、3世紀以前の楽田村は狗奴国、もしくは別王朝とするしかありません(青塚古墳群もほぼ前方後方墳ですが、それは後に発見したことです)。狗奴国の可能性が高いということは、必然的に邪馬台国は畿内説になります。
この記事ではこれ以上言及するには容量が足りませんので、別記事に纏めておきました。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810
狗奴國首長墳発見

長塚古墳01.png長塚古墳02.png

城山古墳群発見の経緯

閑話休題。記事主は以前より、まるで大阪城真田丸のような出城、楽田城小城址が気になっていました。別記事での検証中、境界に実線を引いたことで、青塚古墳によく似た前方後円墳と気が付き、そして国土地理院の昭和22~36年の空中写真で周辺をよく見ると、驚くほど多くの前方後円墳の痕跡と、唯一の現存する前方後円墳を発見するに至りました。この記事では城山古墳群と仮称しますが、他県の城山古墳群と区別するために、集落名の本郷より本郷城山古墳群(ほんごう-しろやま-こふんぐん)と呼称した方がいいかもしれません。

IMG_9290.jpegIMG_9135.jpeg

IMG_9201.jpeg実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。


次に楽田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。
IMG_9287.jpeg記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間に、道が通っていることがわかります。

IMG_9288.jpeg

昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。
IMG_9289.jpeg

現在のGooglemapで境界に実線を引くと解りますが、この通り、あきらかに前方後円墳です。後円部の南側が道路境界として残っています。小城址は、織田方が古墳の前方部を平らに削り出したもので、傾斜は古墳時代の名残だったのです。
IMG_9320.jpeg

楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。楽田城址との対比.jpggemini.png
google Geminiによる再現図

水路@土地境界.jpgIMG_9319.jpeg後円部水路.png

なお便宜上、城山古墳群につき、第0号墳~第24号墳と呼称します。
城山古墳群.jpg

愛知県の古墳】(※あまりにも次から次に巨大古墳を発見しすぎて、途中で作成を放棄しています)

三ツ塚大塚古墳楽田村・羽黒村):墳丘長約390メートル
北野屋敷古墳羽黒村):墳丘長約306メートル
林吾塚古墳楽田村):墳丘長約305メートル
追分古墳楽田村):墳丘長約282メートル
五里塚古墳楽田村):墳丘長約278メートル
東追分古墳楽田村):墳丘長約274メートル
長塚第1号墳楽田村):墳丘長約153メートル
長塚第2号墳楽田村):墳丘長約152メートル
断夫山古墳(熱田区):墳丘長約151メートル
長塚第3号墳楽田村):墳丘長約149メートル
青塚古墳楽田村):墳丘長123メートル
城山第1号墳楽田村):墳丘長約120メートル
白鳥塚古墳(守山区):墳丘長約110メートル
城山第2号墳楽田村):墳丘長約100メートル
二子山古墳(春日井市):墳丘長約95メートル
……
城山古墳楽田村):墳丘長約80メートル
長塚古墳楽田村):墳丘長約80メートル
城山第0号墳楽田村):墳丘長約70メートル

古墳跡地では、古代と現代が交差する

第7号墳、第8号墳跡は記事主の通学路の途中にありました。本来は丸い敷地外周の公道を通っていましたが、小学生の頃は初中お屋敷の私道も通らせて頂いていました。の頭を撫でて、屋敷林の横を通り抜けるのがルーティーンでしたが、不思議で独特な雰囲気が抜群に良かったのです。実は古墳の痕跡だったと知ると、納得できるものがあります。この地域の古墳の跡地は、古墳時代の境界が現存しており、なんだか異空間の趣が漂うのです。第2号墳.jpg

第7号墳跡の西の入り口は、まるで人が吸い込まれるようでした。(イメージ画像)真夏の西日を遮り、真冬の伊吹下ろしを緩和する、人にやさしい屋敷林だったと思います。
屋敷林.png

第1号墳は古墳群最大120m級の後期型古墳です。この通り大きいです。奥の方が後円部です。
第1号墳前方部.jpeg

120mの古墳丘長全体を、前方部の西端から見ると、もやは後円部が霞んで見えます。(2024年撮影のGooglemap)
120m.png

仮に現存していた場合(古墳全体が小学校の敷地に取り込まれている…というだけで現存はしているのですが)↓のような姿をしていたことでしょう。Googleジェミニによる再現図です。
城山1号墳再現図.png

後期古墳型の特徴として前方部が高く、旧体育館の頃、城址の西側のほうが、より高低差があったのは、その名残です。昭和の当時は必要最低限の境界補強のみで、古墳の雰囲気が残っていました。令和の現在も後円部の東端には若干古墳時代の面影があります。
第1号墳後円部.PNG
それにしても、第1号墳東端のこの建物、記事主の小学生時代からここにあります。もしかすると楽田小学校に残る、最古の建屋かもしれません。

後円部の建物.jpg

IMG_0104.jpeg
 

もうひとつ第1号墳の思い出話を。後円部にあった校舎裏の宿直室ですが「学校の怪談」もあって、無茶苦茶怖かった記憶があります。こうして昭和36年の空中写真で確認すると、第2号墳の昼なお暗き森がすぐ北側にあり、怪談の舞台になるのもわかる気がします。
第1号墳.png
学校の宿直室は、夜間に一人で過ごすためか、足音や物音、人影などの怪現象が起こりやすい場所の定番です。楽田小学校の怪談は、宿直の先生が霊的なものに襲われ取り殺されてしまうという、小学一年生の私や級友たちにとっては、それはもう恐ろしい話だったと記憶しています。

ただ実際は、宿直の担任の先生の陣中見舞いに、近所の本郷の児童が、差し入れを持った親と一緒に大勢でわらわらと遊びに行って、先生と生徒、親同士も交流できたという大らかな時代だったようです。
学校の宿直室.png
X まるえつ様の投稿より画像引用 https://x.com/maruetu_daze/status/716636051616321536/photo/1

※地元本郷集落の児童が、わらわらと先生のところに遊びに行く習慣は、宿直制度のなくなった記事主の少年時代にも、集落の記憶なのか(形を変えて)若干残っていました。私自身も二度参加しています。あれは無茶苦茶楽しい思い出です。戦前から昭和30年代の頃も、それはソレハ楽しかったと思います。
なお学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まり、戦後は学校の火災や盗難などを防いだり、地元の人々との連絡や調整などのために続けられてきましたが、昭和40年代に廃止になりました。


その第1号墳のすぐ東隣にある、令和現在の第13号墳跡です。墳形が土地境界の形で、奇麗に残っています。特に前方部・後円部の西側の水路が、前方後円墳そのものです。この辺りは、楽田村史「楽田城平面図」では不思議な形で突出したですが、実際には北東の堤防の役割を果たしていたことになります。水没するほど地表を削り取っては、高低差が残らないと思うからです。後述する第3号墳とは異なり、こちらは堀状にはなっていなかったのではないかと。少年時代はよく前を通っていましたが、実際、土地は小高い丘のようになっています。掘割.png

城山第13号墳.jpg

第20号墳跡は令和現在のほうが、境界痕跡がわかりやすいです。後円部があったところには、戦前のものと思われる建屋に書道教室があって、そのむかし記事主も通っていました。独特の雰囲気のある空間でした。
第4号墳.jpg

第20号墳の前方部です。高低差がまだ残っています。ということは、第20号墳は(第2号墳同様に、完全に消滅はしておらず、)まだ一部が残っていると認定していいでしょう。(記事主認定)
第6号墳前方部.jpg
第17号墳跡は円墳か、帆立貝型前方後円墳か、難しいところですが、昭和57年の空中写真で帆立貝型前方後円墳と結論しました。私が書道教室に通っていた頃は畑だったと思いますが、なぜこうした閉鎖空間に畑なんだろう?と若干不思議な場所でした。第21号墳跡・第22号墳跡も痕跡から同様に帆立型とみます。志段味の古墳の一族と、婚姻関係があったのかもしれません。第10号墳.jpg

現在の第17号墳跡です。なんとなく古墳時代の面影が残っています。点線の2カ所にも、古墳があるかもしれません。境界(道、水路)が弧状です。(画像下:城山第16号墳)(画像上:城山第19号墳
第5号墳.jpg

…あるかもしれないと思ってGooglemapで見てみると、第16号墳は普通にそこにありました。まるで斑鳩の法隆寺の駐車場の植込みのように、日常に溶け込んでいます。言われてみないと、これが前方後円墳とは、わかりません。画像では小さく映っていますが、現地調査した結果、墳長は12mあり、「意外に大きい」という印象を受けました。こちらのご自宅の先々代の大(おお)先生には小学生の頃、何度も何度も本当にお世話になりました。第6号墳.jpg

楽田は「尾張國の斑鳩」

曲輪、道、そして古墳も、昔から楽田村にあった普通の神社であり、普通の土地境界です。考古学的には発見ではありません。類例では令和4年に「法隆寺の駐車場にある植え込みが、実は古墳」という発見がありましたが、分類上はそれ(学術調査前の植込み)に近いと思います。特に第9号墳はそうです。

法隆寺の植込み.jpg植込み02.jpg


第19号墳跡も昭和23年の画像を見ると、前方後円墳の起伏と境界が確認できました。すぐ南側に第18号墳の起伏も見つけることができました。両墳共に昭和30年までに境界は消滅していますが、墳丘長敷地は痕跡として今も残っています。昭和23年の時点では第15号墳の後円部と、前方部の西半分の境界も現存していることがわかります。
IMG_0242.jpgスクリーンショット 2026-02-05 195328.png

第14号墳は昭和36年と昭和24年の空中写真で確認することができます。第16号墳と同じく、墳丘長は約12mです。写真では小さいのですが、民家の庭に12mの古墳があると思うと「けっこう巨大」です。
第14号墳02.jpg第14号墳01.png第14号墳03.png

第23号墳跡と第24号墳跡は昭和57年の空中写真に、比較的わかりやすく境界を確認することができました。
第11号墳.jpg第13号墳.jpg

第9号墳・第10号墳・第11号墳・第12号墳

城山古墳群.jpg

第9号墳の西側前方部の前田屋さんの敷地に境界の一部と、東側の前方部・後円部に水路が境界として確認できます(昭和23年空中写真)。令和時代も水路は現役です。第9号墳の前方部東側には、昭和時代には「くもん教室」があって、記事主も通っていました。余談ですが、前田屋さんでは昭和50年代初めまで、お店でラーメンを食べることができました。あのラーメンを食べることができなかったことは若干心残りです。
城山第15号墳.png令和@城山第15号墳.png


第10号墳第11号墳につき、1700年前の道と水路が現存しています(令和6年、令和8年写真)(昭和23年空中写真)。住宅街に、このような古代の痕跡はなかなか見ることができません。左右に前方後円墳はハの字に並んだ、古墳時代の光景が目に浮かぶような、かつての境界です。
古代の境界.png第16号墳と第17号墳境界.jpeg
城山第16・17号墳.png

しかし第10号墳第11号墳といい、本郷集落は古代の境界、水路がそのまま現存・現役であるところが、非常に興味深い地域です。私の少年時代は「城下町だから道が複雑なんだろう」くらいに思っていましたが、実は「1700年前の御陵地」が起源なので、それどころではなかったのです。
現存する古代の境界.jpg

第12号墳は米軍撮影昭和24年空中撮影に、痕跡を確認することができます。
第18号墳.png第18号墳_.jpg

昭和34年国土地理院空中撮影にも、前方部および、後円部西半分の痕跡を確認することができます。
第18号墳02.png第18号墳02-2.jpg

第6号墳

城址の西側にも1基発見することができました。第6号墳は昭和52年国土地理院空中写真にも痕跡が確認できます。前方部は令和の今も境界は健在で、高低差も確認できます。

城山第19号墳03.jpg

城山第19号墳02.png

なお前方部の北側に隣接する建物は、昭和時代はそろばん塾でした。城山古墳群に近隣には文教施設が多いような気がします。城山古墳、第0号墳、第1号墳は小学校。第17号墳、第20号墳、第21号墳、第22号墳は書道教室が隣接。第8号墳、第9号墳、第10号墳の近隣はくもん教室。第7号墳の線路の踏切を挟んだすぐ向かい側は日本舞踊教室でした。私の同級のひとりもここで学んでしました。なお私の通学路でもあったこの踏切は、廃止されて通行止めになっていました。

そろばん塾 第6号墳
書道教室 第17号墳、第20号墳、第21号墳、第22号墳
くもん教室 第8号墳、第9号墳、第10号墳
日本舞踊教室 第7号墳
楽田小学校 城山古墳、第0号墳、第1号墳

昭和時代の本郷には個人宅に「生け花・茶道教室」「大正琴」「ピアノ教室」の小さな看板が普通に掛けてあって、他の古墳の周辺にも文教施設があったと思います。古墳の跡地というのは、古代と現代が交差する独特の雰囲気があり、それが教育環境に向いているのでしょうか…

なお楽田城裏之門石碑の近隣には音楽教室が今も健在で、北之門の石碑近くには、昭和時代にそろばん教室があって、記事主も通っていました。やはり中世の独特の雰囲気(歴史の記憶)ともいうべきものが残っていました。

音楽教室 裏之門石碑
そろばん教室 北之門石碑

第4号墳・第5号墳

城山の南側にも3基発見することができました。まずは第4号墳と、第5号墳です。
昭和52年の国土地理院空中写真です。第4号墳は40~50mありそうです。
第5号墳前方部は、第8号墳前方部と同じように、昭和の頃は屋敷林でした。北側にある道は通学路で、記事主も通っていました。この通学路は戦国時代の道の痕跡でもあります。楽田城南門入口から、お城に続く道なのです。奥の方に「何かあるのかな?」「林?」「どうしてここに林?」「なんだか不思議な空間だな…」とは思っていましたが、まさか古前方後円墳が2基があるとは気が付きませんでした。本郷という集落は、古代・戦国・現代の、空間・境界・道・水路が、混在・一体化しており、異空間の狭間に迷い込んだような、そんな錯覚をおぼえます。

城山古墳群南.jpg城山19_20号墳@昭和52年01.png盲点.jpg

第3号墳

楽田村史にある楽田城平面図の「」につき、その深さが疑問でしたが、第3号墳の境界が残っていたということは、普通の水田だったと、この記事では結論付けます。深さが10m、15mあったとすれば、古墳の境界は消滅するからです。お城の北側と、お城の西側は「外屋敷」という地名の痕跡が示す通り住居地が多く、お城の東と南側は普通に水田地帯だったと解します。水田というのは落口桝(おちぐちます)を閉じれば普通に池になります。 水田はあくまで「農業生産の場」であって、平時は食料供給源、戦時は防御施設という二面性は織田時代から続く伝統だったと解します。田のぬかるみは騎馬や歩兵の移動速度を著しく低下させるという、敵が容易に近づけない構造があれば、それは十分に堀の役割を果たしたのです。

城山第22号墳01.png城山第22号墳02.jpg昭和52年空中写真01.png

というわけで、簡易的ではありますが、楽田村史「楽田城平面図」を70年ぶりに更新しておきます。
水田地帯.jpg

1000年後、古墳は土塁になった

さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。小牧長久手の合戦において、防御陣地構築の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。豊臣秀吉10万の大軍をもってすれば極めて短時日で構築可能だったと思われます。土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。逆に言いますとこれは古代から戦国時代までの、1000年間、地元本郷の先祖代々「板津さん」「梅村さん」「服部さん」たちが、古墳群を大切に護ってきたことを証明しています。
お城の土塁.png

戦国時代よりも以前の楽田城は、3基の前方後円墳

そもそも楽田城ですが、何故あんなに平らになっているのか疑問です。記事主は第1号墳と、城山古墳、さらにもうひとつ城山古墳の西側に「第0号墳」があったはずで、それら3つを潰して平らにして造られたものと考えています。何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳を改修する方が効率的だからです。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、3基の巨大古墳を潰した築城…もっといえば更に10基以上の古墳も潰して土塁にし、合計20基以上の古墳から成るのは日本で楽田城だけと思われます。なぜならベースとなる楽田城段丘の地質が周囲の平地と全く変わりないからです。

地質.png

濃尾平野には「ポツンと段丘」が楽田城の他に、岩崎山小牧山がありますが、それぞれ花崗岩チャートです。楽田城段丘状たる地質学的必然性が不明で、巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。

名古屋空港.JPG
※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場が造成される以前には岡山佛鬼山という標高二十メートルの段丘がありました。やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われますが、今となっては確かめる術がありません。

三大古墳@城山古墳群.jpg


しかし、これら基本中の基本を、なぜ一庶民の私、素人の記事主が考察しないといけないのか哀しくなります。学者、歴史家はもちろん、地元楽田の人も殆ど誰一人として、国内第二の巨大古墳群三英傑に関わる御城や、その曲輪や古道、勝部の桝形の成り立ちに興味が無く、忘れ去られようとしているのです。青塚古墳群の調査図を後世に残した記事主の曾祖父、松山鶴吉(世襲名、松山忠左衛門)の気持ちがわかるような気がします。おそらく学者、歴史家はもちろん、地元楽田村の人も誰一人として青塚古墳群を、大正5年当時は見向きもしなかったのでしょう。

 

(発見)楽田城の遺構「遠見の曲輪」「忍者道の痕跡」


みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。

楽田城(愛知県 犬山市)の「遠見の曲輪」「忍者道」(発見)というのは、この記事の結論です。考古学的証明ではありません。

三英傑.jpg

織田信長が領有、豊臣秀吉の本陣。徳川家康と対峙あり。櫓(やぐら)からの眺望抜群。地盤頑丈・耐久性保証付。天正十二年当時の超優良居抜き物件

さて、戦国時代のお城の周辺には、その巨大さ故に必ず痕跡が残っています。楽田城も例外ではありません。お城から少し離れた街道筋に集落のお天王様がありますが、記事主が見る限り、物見櫓があった遠見の曲輪(くるわ)」にしか見えません。曲輪となれば、織田・豊臣・徳川と、三英傑に関わる貴重な遺構になりますが、日常の中に埋没して誰も指摘しないので、元地元民の私が記事にした次第です。(集落は異なりますが、お天王様から実家まで300mありません)
IMG_9177.jpeg

お天王様は地元「勝部・西北野」集落皆様のもの。

織田家・旧尾張領内で街道脇の、しかもお城から独立した戦国時代の曲輪の遺構というのは、ここ旧楽田村にしか現存しないと思われますが、旧国道建設により東半分は失われ、歩道橋設置により、必要最小限ですが、やや削られています。私が呼ぶところの曲輪は、あくまで地元の大切な「お天王様」ですが、三英傑にかかわる遺構となれば、これは凄いことです。全国でも数えるほどしかない三英傑の遺構のひとつといえます。集落の誇り以外の何ものでもありませんが、今後とも発掘調査等は棚上げして、戦国の痕跡をこのまま地元の方々にお任せして、遠くからそっと見守り続けるのが大前提と記事主は思います。
IMG_9102.jpegIMG_9104.jpegIMG_9133.jpegIMG_9070.jpeg

曲輪の監視する木曽街道上には戦国時代には桝形勝部の桝形が設けられており、曲輪と連携して防御態勢が敷かれていました。曲輪はちょうど桝形の要(かなめ)の位置にあり、南北に睨みを利かせていることが分かります。
勝部の桝形.jpg
大正九年作成の国土地理院 2万5千分1 地図

勝部の桝形は現存していますが、地元楽田の人もほとんど知らないと思います。この素晴らしい地域の遺産「桝形」も、日常の中に埋没して忘れ去られてしまうのは忍びありません。お隣の小牧の桝形のように、HPによる周知や、お天王様に説明版があるといいように思います。https://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/shiteibunkazai/4/8/9610.html
現在の道.jpg

曲輪を造るには古墳並みの土量が必要

桝形から曲輪に話は戻ります。「農民にとっての価値との価値は同じくらい重要である」という表現は、水害の脅威に常に晒されてきた木曽三川輪中地域特有の文化や歴史的背景から「土一升に金一升(つちいっしょうにきんいっしょう)という言葉が伝わりますが、楽田村はそこまででは無いにしても、村内のいち集落の神社3D化は、あまりにも土の使い方が異次元かつ、非合理的過ぎます。

記事主には、西北野(にしきたの)、勝部(かちべ)の「吉野君」「吉野さん」「石田君」といった先祖代々ここに住む苗字の同級生がたくさんいますが、皆真面目・良妻賢母を絵に描いたような級友ばかりです。現在の職業も銀行員、体育の先生、トヨタ自動車、デンソー、航空機メーカー、親父さんの残した工場を継いだ…など、協調性を大事にする、常識ある人たちです。異次元・非合理な発想は、彼らのご先祖様と対極関係にあるはずです。

したがって織田家による軍事目的の造成と考えるのが自然でしょう。織田家がわざわざ古墳造成並みの労力で曲輪を造った理由ですが、
①軍事拠点としての防御の他に、
②櫓の礎石(裏込め石、築石、栗石)等基礎を固め、
③石垣による柔軟性と重力分散効果、
④かつ適切な排水性も確保し、
⑤地震にも対応できるような、
長期間の安定を担保することにあったと解します。
現在も歩道橋の基礎のひとつが、お天王様に据え付けられていることは、②~⑤の理由により非常に理に適った合理的なものといえます。曲輪は今も昔も遠見の構造物を支える、縁の下の力持ちの役割を立派に果たしているのです。
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近隣集落の寺社(観音堂烏森天神若宮神社)と比較してみます。他は全て2Dです。当たり前ですが、巨大構造物の重量を支える必要も、敵?が寺社を襲撃してくるおそれもないからです。
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楽田城近辺の織田家の軍事遺構に木ノ下城がありますが、こちらは先の寺社とは違い3D構造となっています。犬山城築城に伴い、木ノ下城は廃城。現在は愛宕神社になっています。
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平城(ひらじろ)は防備が難しい

さて、曲輪の上には、おそらく画像↓のような雰囲気の物見櫓があったと思われます。画像引用:Wikipedia「西尾市の東条城物見櫓」

ただし屋根は藁(かや)葺きで、私が城主なら、火急の折にはに火を付けよ!と厳命します。火柱はお城の天守からも良く見え、全城兵瞬時に相伝わるでしょう。お城のすぐ北の曲輪にもがあったはずです。ヒューマンエラーがあっても、火柱をどちらかが見つけることができれば、生存の確率は高まります。たとえ丑三時であろうと、半鐘を鳴らせば襲来も城内に伝わるはずです。楽田城は「天守「内堀」「外堀」「土塁」「北の曲輪」「遠見の曲輪」「勝部の桝形」と、幾重ものセキュリティシステムが施されていたことになります。※「内堀」の一部は城山の東隣に昭和51年まで現存していました。
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こちらが、お城の北の曲輪です。(やはり遠見の曲輪や、木ノ下城と同じ3Dですが、実は…)
IMG_9135.jpegIMG_9201.jpeg北の曲輪の奥から手前にかけて、緩やかに傾斜しています。遠見の曲輪は真っ平です。この傾斜は遥か昔の痕跡でもあります。

その北の曲輪(小城)の位置につき、楽田村史の略図と丹羽郡樂田村古城之圖を、空中写真で確認します。
IMG_9290.jpeg丹羽郡樂田村古城之圖.png楽田城址との対比.jpg

国土地理院昭和36年の空中写真で確認すると、前方後円墳とわかりました。楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。楽田小学校北側も明らかに後期型前方後円墳で墳丘長は120mあり、こちらも愛知県で3番目の巨大古墳です。楽田城周辺には20基を超える前方後円墳が存在し、城山古墳群を形成していることもわかりました。若干記事の趣旨に逸れますので別記事にまとめておきました。城山古墳群.jpg

豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、巨大古墳群発見 https://www.rescue-119.jp/news/archives/17841818

平成初期まで一部現存していた戦国時代の道

さて、曲輪に物見櫓があるからには、お城へ最短距離で結ばれ、急ぎ駆けつける「忍者道」もあるはずです。櫓を燃やすというのはもちろん最終手段にすぎません。昭和14年の愛知県丹羽郡楽田村土地宝典で確認してみます。
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令和時代の地図で検証してみましょう。
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青い点線部分の道が失われているようですが、航空写真で見てみます。
IMG_9062.jpegIMG_9063.jpeg赤丸部分の500年以上前の道の遺構が、土地境界として残っている事も、画像検証でわかります。記事主の少年時代には道そのものが残っていました。1~2尺ほど高低差のある、畔道としては妙に立派な黒土の造りだったと記憶しています。「ここの畦道だけ、何故こんなに立派なんだろう?」と心の片隅にありましたが、まさかこれが戦国時代の道の一部とは、思いもしませんでした。戦国の道で遊んでいたなんて、今にして思えば贅沢な少年時代でした。

道のイメージ.png
イメージとしてはこんな感じです。道幅はもっと狭く半分くらいの、粘土質のしっかりした黒土で、左が塀、右が苺畑でした。少年時代に実際に歩いた道は、地中の丸石や砂利がクッションとなって、それはそれは歩きやすい優しい道でした。

国土地理院「昭和52年の航空写真」の田圃(青田)にも道筋の痕跡が残っています。道だった個所は「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法が使われているはずで、廃道から数十年を経ても、稲の根の発育に影響がでているとおもわれます。
国土地理院航空写真.png

また、緑の丸の空き地ですが、やはり道だった箇所だけ草の生え方等が微妙に異なっているはずです。周りに比べて背丈の低い草が多いと思われます。航空写真でも色が違います。

農林水産省が提供する「eMAFF農地ナビ」を利用し確認してみます。道だった場所にが表れています。草の背丈が異なるようです。
「eMAFF農地ナビ」.png


追記。赤丸の境界部分は高低差も昔のまま残っていました。印が当時の道があったところです。
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航空写真で緑丸の空き地にも「道はありそう」でしたが、現地調査をしてみて、道の痕跡が残っており、正直びっくりしました。前述の通り「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法によって、ススキのような背の高い植物・他が、うまく根を張ることができないようです。80年以上前というのに、その土地の、その道の記憶というものは残り続けるのですね。
IMG_9168.jpegIMG_9090.jpeg敷地奥と、手前の道の痕跡部分では、草の生え方に違いがあって、興味深いものがあります。※やはり今の世の中、地元の人以外が立ち入ると通報されるご時世ですのでご注意ください。…まあ入ったところで何も面白くないのですが。


しかし、この道。みれば見るほど忍者道です。今にも忍者が向こうから駆けてきそうです。
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戦国時代が体感できる櫓・道・お城

さて遠くから楽田城へお越しの際には、お城跡に向かう前に、曲輪から歩道橋に上って北の方を眺めてみてください。「美濃勢」を日々監視した、尾張國織田家の先人たちの思いが甦るはずです。歩道橋という物見櫓で北方を見ると、美濃の山々が目視できます。国境は意外に近いのです。(南を向けば徳川家康本陣、小牧山も一望できます)。
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ふと目を瞑ると齋藤勢が立浪の旗を押し立て、尾張織田領内に押し寄せてくるのが見えてこないでしょうか?(見えましたね)
急ぎ北の曲輪、楽田城へ掛けつけるテイで、お城まで細い路地を歩いてみてください。忍者道はもう通れませんが稲木街道で行くことができます。
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道中は当時、右も左もほぼ全て田圃です。田圃の真ん中を突き進むイメージで。昭和時代までは宅地化も半分程度でした。
昔の航空写真.png

そうこうしていると、お城に着きます。画像は現在の城山城址石碑と同じ場所で、坂道の勾配と大楠は変わりません。城下のお堀の跡地は画像の通り、当時田圃でした。現在は埋め立てられて住宅地になっていますが、水路は戦国時代のままの低いところを流れています。
城山健児.png
※土塁の際に引用したものと同じ画像です。左から右一直線に、田圃の真ん中を横切っているのは水路で、今も全く同じ場所、同じ高さを流れています。(白矢印)

戦国期と同じ水位.jpg

昭和57年までは城山も辛うじて現存していました。
楽田城址遠景.png


令和の今も残る楽田城の痕跡

まとめです。かけがえのない楽田城の歴史の遺産が増えました。
①物狂峠
②青塚砦跡
③伝移築門
城北の曲輪(須賀神社)は城山古墳群のひとつと判明(第2号墳第3号~24号墳)←NEW!!
⑤城址の高低差と、城周のお堀の跡
⑥南門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑦北之門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑧裏門跡石碑から、お城に至る道の痕跡
⑨砦跡(内久保の三明神社)と内久保の一族の伝承
遠見の曲輪勝部の桝形、お城に至る忍者道の痕跡←NEW!!
⑪楽田城址(城山古墳)と、第0号墳、第1号墳NEW!

八代六郎【やしろ ろくろう】大将と、松山一族の歴史

 

みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。

第一回帝国議会 衆議院議員 松山義根(旧名は松太郎)・男爵八代六郎元海軍大臣(旧名は松山浦吉)兄弟は記事主 楽田 松山一族のご先祖様。松山義根・八代大将の生家は、記事主の父親の実家です。(親戚の家が史跡レベルと知ったのは、かなり後になってのことでした)。そんな縁もあって私、記事主は昔からご先祖様の出自を知りたいと願っていました。

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結論から先に書きます。この記事では松山家のご先祖様は清和源氏(北摂津源氏)本姓は源朝臣とします。
ということは、古代日本史の登場人物の多くは、ご先祖様であって、中世の源氏棟梁・将軍家は男系の親戚筋にあたり、近世では井上馨侯爵も清和源氏の同族。wiki「松山氏は清和源氏の一家系」の記述も「ガチ」ということになります。

清和源氏系図.jpeg


記事主の甥っ子がモデル

歴史少年まつやま君.png

※記事タイトルと結論に、身内側からツッコミを入れる、歴史少年まつやま君。


一次資料の魔力と魅力

ご先祖様の出自につき、松山一族の伝承や菩提寺等の状況証拠、「楽田村村史」「松山義根文書」「侠将八代六郎」「ど根性に生きた将軍八代六郎男爵」によれば、楠木正成の関係者、もしくは家臣らしいのですが、詳細がわかりません。

そこで記事主は、当時の一次資料を検索してみました。富田林市文化財デジタルアーカイブ様に深く御礼申し上げます。正慶乱離志『楠木合戦注文』によれば、天王寺の構を攻めた楠木正成の軍勢は、四条少将以下、楠木一族、(中略)、判官代松山ならびに子息等、(後略)…とあります。当たり前のように、普通にそこに書いてありました。他人任せではなく、自身のまなこで一次資料を読まないとダメですね。


大楠公と共に戦い抜いた丹羽十人衆

判官代の官職には納得できるものがありました。湊川の戦いのあと、尾張の國の丹羽に根を張り、飛保の曼荼羅寺(後醍醐天皇の叔父が開山)の寺侍になった丹羽十人衆のうちの一家が当家ですが、勅撰寺の寺侍というのは準官職に相当します。楠木正成の部下の地位でありながら、主君を戦場に置いての離脱の末の任官というものは考え難いのです。曼陀羅寺さんは、十人衆の戦績を高く評価したと解します。楽田松山一族全体の長年の疑問のひとつが氷解したことになります。

楠木合戦注文
天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、大将軍四条少将隆貞(たかさだ)以下、楠木一族、同舎弟七郎、石河判官代跡代百余人、判官代五郎、判官代松山ならびに子息等、平野(ひらの)但馬前司子息四人、平石(ひらいし)、山城五郎、切判官代、春日地、八田、村上、渡辺孫六、河野湯浅党一人、その勢五百余騎、その外雑兵数を知らず。

ジョースター家と花京院典明の距離感 ≒ 楠木一族と判官代松山の関係

繰り返しになりますが、松山一族の伝承や「ど根性に生きた将軍八代六郎男爵」などでは、松山一族は楠木家の家臣団の一人ではないか?と推測されてきましたが、楠木合戦注文をみる限り、楠木正成は大名級の勢力で、例えるならスピードワゴン財団級の財力を有していたと思われますが無位無官。松山家は皇別としての官職を持った、独立勢力だったことが分かります。無位無官の家臣に従五位判官代というのは有り得ません。建武の新政における官職も楠木正成の子、楠木正儀は楠木左馬頭。松山一族も松山左馬頭の記録があり、官職上は同等の地位であったことがわかります。

配下・臣従の関係はなく、比肩・戦友。

 

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判官代という官職に任官するからには、まず源平藤橘が考えられます。鎌倉時代後期という時勢から考えると「源朝臣」か「藤原」です。
「判官代(ほうがんだい)」とは、平安時代以降に設置された役職で、主に院庁(上皇・法皇の政務機関)の事務官として、現地で土地管理や年貢徴収を行う役人を指します。
位階では五位・六位の者が任命されて院庁の庶務を担当しました。具体的には、院庁下文・院庁牒・院宣といった文書の署判や、文書の作成・考案、記録・文書作成などの事務に従事しました。
院の荘園の現地で、土地の管理や年貢(ねんぐ)の徴収を司る職務(の代理・補佐)を務めました。位階三位、四位といった御本家ではなく、あくまでも分家筋が就くことが多い官職です。
「判官」は「尉(じょう)」のことで、特に検非違使の尉を指すこともあります。また、源義経の通称としても知られますが、「判官代」はそれに直接関係する役職ではなく、あくまで「判官」の位階を持つ者が就く代官のような意味合いを持つと解釈できます。


大楠公が鎌倉幕府御家人と推定されるに至った手法で特定

ご先祖様と共に戦った戦友を、ここに記載しておきます。「富田林市史 第二巻 中世偏」「楠木合戦と摂河泉の在地動向」を参考にしました。

四条少将隆貞
早くから後醍醐天皇の討幕計画に参画し、笠置落城後姿をくらませた公家四条隆資(たかすけ)の子で、元弘三年には護良親王の側近として令旨に署名している。楠木正成よりも位階官職が上位の各地の武士を統率するため、貴種の大将として、正成が必要に迫られ推戴したと考えられる。和泉国国司。なお四条の由来は、四条大宮に構えた邸宅による。
楠木一族、同舎弟七郎
楠木一族について、「吾妻鏡』を読むと、源頼朝公が上洛した際の随兵に「楠木四郎」という名が普通にそこに書いてあり、大楠公のご先祖のようです。近年の研究では楠木氏はもともと頼朝公以来の御家人の説が有力のようです。舎弟七郎とは楠木正成の弟、楠木正季のことです。
石河判官代跡代
河内国石川郡石川荘を本拠地にしたといわれる源氏。
判官代 五郎
庭田 重家(にわだ しげいえ)、通称「庭田 判官代 五郎
新田一族である庭田氏は上野国新田郡庭田郷(現在の群馬県太田市新田庭田町付近)を本拠地として領地としたことから「庭田」を名乗るようになりました。判官代五郎は、大楠公の「身内」だけでなく、討幕の志を持って各地から集まった武士の一人であり、京武士からも非常に高い信頼を得ていました。
山城五郎
「山城頼兼」の通称が「山城五郎」。山城氏は、宇田源氏の一流で、もともと山城国(現在の京都府南部)を本拠とした武士団です。
平野(ひらの)但馬前司子息四人
持明院統の公卿で関東申次を勤めた西園寺公宗(権大納言)の家人。但馬前司子息四人のうち三人が、平野将監入道と、その舎弟次郎蔵人と、孫四郎。
平石
平石氏は、和泉国和泉郡平石郷(現在の大阪府和泉市平井付近、あるいは千早赤阪村の平石とも)を本拠地とした一族です。平石氏は楠木氏と血縁関係、あるいは非常に近い同盟関係にあったと考えられており、正成の挙兵初期から常に主力として行動を共にしています。
切判官代
長洲庄(現代の尼崎市)の「木礼成心」の一族と推定される。切(木礼)は平野郷の南に隣接して現在「喜連」と表記され、「キレ」と呼称される地名姓と推定される。
春日地
春日地次郎。地元北河内最大の有力者。元を辿れば大和国添上郡の春日社(春日大社)領の地名、あるいはその土地を管理・支配していた在地小領主に由来すると考えられています。
八田
和泉国大鳥郡の石清水八幡宮領八田庄を本貫とする八田氏である。鎌倉期における八田氏は和泉上方の国御家人であり、その末期から内乱期にかけては八田助房が大鳥庄の悪党交名に頻出する。
村上
上村基宗。沢村宗綱の孫。和泉(いずみ)(大阪府)大鳥郷の有力名主。
渡辺孫六
長洲庄の豊前三郎左衛門入道の一族で摂津渡辺党の一員。
河野湯浅党一人
紀伊国阿氐河荘(阿瀬川荘とも書く)を本領とした湯浅党の一員と考えられる。

※なお、判官代松山の、天王寺の構(かまえ)攻めにおける戦績ですが、
①まず大楠公は天王寺の鳥居の周辺に「構(防御陣地)」を築いた幕府軍に対し、急襲すると作戦建てをしました。
②具体的には軍勢をいくつかに分け、夜陰に乗じ、幕府軍を混乱に陥れました。
③史料によれば、判官代松山は他の有力武将(神屋など)と共に、天王寺の要所を攻め落とす実戦部隊の指揮官として動いています。
歴史的意義として、この戦いは、圧倒的な兵力を誇る幕府軍に対し、南朝方がゲリラ戦術で勝利を収めた象徴的なエピソードの一つです。判官代松山のような地元に根ざした京武士たちが、その土地勘と機動力を活かして正成を支えていたことがわかります。


閑話休題。当時の武士も所領があった土地を苗字にすることが多いということがわかります。これは今も昔も変わりません。苗字が同じ叔父を「東京の叔父さん」「名古屋の叔父さん」「大阪の叔父さん」と地名で区別することと質的に同じです。当時の武士に限らず、ご先祖様のひとり藤原鎌足の「藤原」も、鎌足の出身地の地名「藤原」を天智天皇より賜っています。(地名「藤原」は藤原京があった辺りです。)


松山という所領に根を張る豪族が見つかれば、ルーツも判明するはずです。太平記に「松山氏」を見つけることができました。

そうこうするほどに仁木中務少輔は、京から伊勢へ落ちて、相摸守(細川清氏きようぢ)に従うと聞こえたので、兵部少輔氏春(細川氏春)は、京より淡路に落ちて国中の勢を付けて、相摸守(細川清氏)に力を合わせ、兵船を調えて堺の浜(現大阪府堺市)へ着くと知らせました。摂津国の源氏松山松山左馬頭)は、香下城(現兵庫県三田市)を造り南方(南朝)に牒し合わせ([文書による通告])、播磨路を差し塞いで、人を通わせずと聞こえたので、並々でない蜂起に、京都の外までさわぎになって、世の乱が起こるのではないかと危ぶまない人はいませんでした。https://balatnas.exblog.jp/32707037/

「摂津国源氏松山は、香下城をこしらえて南方に 牒し合わせ、播磨路を差し塞いで人を通さず」これは「太平記」にみえる康安元(1361)年冬ごろの記録です。現在の兵庫県三田市に、松山の庄がありました。地元の志手原八王子神社には「松山左馬頭香下城によるや祈願所として神田祈祷田等を寄進す」の記録が残っています。三田の松山氏が南朝(後醍醐天皇)方に属して香下に城を築き、播磨から進出する北朝(足利氏)方の軍勢を防いだというものです。判官代松山と同じく、南朝(後醍醐天皇)方に属しているのも同じです。官職は左馬頭ですから政権の有力者と解します。(同時代南朝方の左馬頭といえば、楠木正成の子、楠木正儀・吉良上野介の祖先、吉良満貞が有名です)。左馬頭は遡れば北条得宗家、後年は足利将軍家・関東管領家が独占し、徳川将軍家では綱重が、右馬頭・左右馬寮御監は15代慶喜まで代々叙任された官職です。判官代松山家とは、ご本家と、分家の関係だったのでしょう。松山氏とは、北摂津源氏(多田源氏)の流れを汲む武士の氏族で、源満仲の次男の頼親に始まるとされています。

※詳細は、三田市三輪区の情報発信サイト「古代、中世の三輪」4.松山荘と松山氏… p7をご参照ください。
https://miwaku.org/%E4%B8%89%E8%BC%AA%E5%8C%BA%E5%8F%B2/

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松山の堰を築いた松山弾正(「弾正」は官職名 )

なお、京周辺の在地武士を、鎌倉武士と区別して「京武士」と言うそうです。

「京武者」論を最初に提唱した元木泰雄氏は、これを「院。摂関家等の権門と結合し、権門内外に対する爪牙として恒常的に軍事活動を行った軍事貴族(中央の官職を帯する武門)」と定義された。更に狭義では「京の政界に独自の地歩を有し、五位程度の官位有する存在」とも述べられている。これらの研究については、元木泰雄「摂津源氏一門l軍事貴族の性格と展開l」(「史林』第六号、一九八四
年)、同「保元の乱における河内源氏」(「大手前女子大学論集」二二号、一九八八年)に詳しい。

京武士たる松山家のご先祖様はどんな人たちだったのでしょうか? 三田のおはなし「松山弾正と甚五郎」にエピソードが残されています。

IMG_7305.jpeg兵庫県三田HP「三田の民話・伝承」より画像引用
https://www.city.sanda.lg.jp/material/files/group/16/20160726113542-1113.pdf

…此の話は松山氏が善政を布いたのに対し、この地の土豪・大堂甚五郎の悪政に苦しめられた領民が、 甚五郎を盗賊として松山氏を讃えた話のように思えます。私には甚五郎が大道ヶ原(三輪山)から丸山(城山運動公園となっている丘陵地)及び其の北に位置する志手原や香下辺りを領していた土豪と思っています。羽束山山頂には香下城があり、 羽束三山と仮称している甚五郎山の山頂に曲輪跡があり南朝方の拠点ともなったとされますので、大堂氏を落とした松山氏方が此れら三輪・丸山・志手原 ・甚五郎の各山城を居城したのかもしれません。後醍醐天皇による天皇政権復権を目指す吉野南朝と、室町幕府が擁立した天皇を中心としながらも武家政権を樹立しょうとする京都北朝との、動乱期には各地の豪族達がどちらかに付いて戦っていた。 

建武年間(1334-36)頃、大和国城上郡松山より宮方代官として松山三河守弾正がこの地へ来ました。…松山氏には土木工事等領民の為の治績もあって、 川除の南・武庫川を挟んで約1km地点、県道黒石三田線で貴志城に向かう途中松山堤の停留所標識を見るが松山氏の治水工事「松山の堰」の名残でしょうか。 貴志城にも「五郎四郎池」「御内儀(おなぎ)池」のはなしがあって、武庫川の氾濫や水飢饉に領民の苦しみがつたわってきます。 
https://tanbakiri.web.fc2.com/SANDAsinai-no-siro.htm

治水工事「松山の堰」造営は注目に値します。土木学会論文集「我が国の土木事業の空白期における土木と関係する官職」によれば9世紀から11世紀は「犯土」という思想が浸透した、土木事業がほとんど行われない空白期であったといいます。

土木事業の空白期.png

武士はその空白期に目をつけました。橋や道路の維持管理(土木工事)を担うことで、通行税等の使用料を管理したのです。松山一族は更にもう一歩進めて治水事業を行い、領地の収益確保を狙ったと思われます。「(徳政令等で世を混乱させる)幕府政権とは距離を置き、民の中で、民と共に生きる」松山一族のその後のスタイルが決定されたと解します。領民には感謝され、将にWinWinの関係でした。治水事業では信玄堤の甲斐源氏武田氏よりも200年先駆けています。12世紀当時の草莽の技術者集団といっても差し支えないでしょう。

松山井堰.gif
松山の堰につき、三田市文化協会様の公式ホームページより画像引用させて頂きました。
https://sandashibunka.grupo.jp/blog/5021524

ご先祖様の治水の事績は、昭和30年代までの600年間に渡り現存していました(上記写真)が、昭和36年6月に発生した戦後最大洪水により、改修工事が進められました。現在では交差点とバス停留所に、その名前が残されています。土地の記憶を名前に残して頂いた三田の皆様に感謝申し上げます。

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中(あた)らずと雖(いえど)も遠からず

赤坂城や、千早城の戦いにおける、二重の壁、丸太落とし、石落とし等の仕掛けに、松山氏の建築土木技術があったと考えるのも、なかなか歴史の浪漫があって良いと記事主は思います。「判官代松山ならびに子息等」は「松山一族郎党・技術者を合わせて40~50人」と推定します。鎌倉軍100万人に対し、お味方は800人です。各々一兵卒となって戦いつつ、技術協力でも貢献と考えるのが自然です。もしも記事主が判官代松山なら、天王寺の構(かまえ)攻めに勝利したのち千早城に駆けつける際、戦場に「」、「」、「」と一緒に、大量の「鋸」、「鑿」、「槌」を持込み、他の諸将の目を丸くさせたと思います(笑)

楠木正成「(松山)判官殿!之は如何?」
 

大楠公@千早城.png画像引用:逃げ上手の若君「楠木正成」より


実際の訂正は後世の研究を待ちます

wikiの八代大将の記述【この松山家は、楠木正成一族の家臣の末裔という】ですが、記事主ならこのように訂正したいところです。清和源氏に端を発する松山家は、南朝より左馬頭に叙せられ、土木建築と治水技術により善政を布き「松山の堰」の名が現・三田市の旧領に残る。分家の判官代松山は楠木正成と共に天王寺合戦に参加の記録があり、湊川合戦まで南朝軍として戦う。その後、尾張の國の丹羽に根を張り、飛保の曼荼羅寺(後醍醐天皇の叔父が開山)の寺侍となる。江戸期は現在の犬山市、扶桑町・大口町・岩倉市の一部、18ケ村を知行する大庄屋であった。


余談ですが、江戸時代のご先祖は「目付・御庭番の役割を、尾張藩から任命されていた」と記事主は解しています。犬山藩成瀬家を「事務レベルで監視」していたのです。松山家の本拠地楽田は尾張藩領でしたが、他の17ケ村はすべて御付家老の犬山藩領です。大庄屋ということで、行政の事務を担っていたのは松山家になります。犬山藩領の治安・実情・石高情報が手に取るように入手できました。

犬山成瀬家は幕府から任命されて尾張藩を目付け、楽田松山家は尾張のお殿様から任命されて犬山藩を目付。成瀬家は一方的に監視していただけではなく、尾張藩からも一定の警戒・監視をされていたことがわかります。

犬山の成瀬さんにとって、松山家は後ろに尾張徳川家が見え隠れする、無碍にできない存在だったのです。実際に松山家に対する配慮として、八代さん(幕末当時は松山浦吉)は犬山藩藩校「敬道館」で学ぶことを許可されています。周りが全員武士の子のなかに、大庄屋とはいえ、たったひとり農民の子が混じってです。負けん気の強い八代さんは成績優秀の記録が残っています。明朗闊達な八代さんは喧嘩もめっぽう強かったので、きっと虐められることも無かったと思います。それにしても楽田から敬道館まで子供の足で歩いて2時間はかかります。もの凄い肉体上の耐久力と、自己制御の能力、そして持続する意志です。


折角なので学術書には絶対に書いてないことを

清和源氏のご子孫の皆様に尋ねてみたいことがある。心の中に大きな鬼が住んでいると思う。坂上田村麻呂の血筋なので、記事主は心の中の坂上田村麻呂が暴れていると呼んでいる。この制御は難しくないだろうか。wikiを読むと井上馨侯爵は清和源氏とあって、短気と怒声と書いてある。明智光秀日向守も土岐氏流清和源氏で、本能寺の変暴発している。本能寺の変の「なぜ?」を考えるとき、暴れる坂上田村麻呂を考慮しないと理解は不可能です。時代を遡れば源頼義八幡太郎義家親子は言うに及ばず、鎌倉殿やその血縁者、歴代足利将軍も大概気性が荒い。松山一族のご先祖、松山義根も磅礴隊として幕末の混乱期に戦い、八代さんは、500年間無敵を誇ったコーカソイド相手に最初の巨砲一撃を与え(仁川沖海戦)、東郷平八郎元帥の反対も押し切って薩摩閥を海軍から一掃している(シーメンス事件時の海軍大臣)。元来の気性の激しさ由来と言わざるを得ない。短い激動期、混乱期には大いに役に立つかもしれないが、長い平和な時代に、この気性は、困りものではないだろうか。


清和源氏.png 親から「清和源氏」の子孫と聞いて、髪の毛にしか興味のない、まつやま君だった。

42年経って、まんが日本史エンディングテーマ「風のメルヘン」歌詞の意味がやっと理解できた。

 

みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。

『まんが日本史』とは、昭和58年に日テレ系列で放送されたテレビアニメです。記事主も少年時代に見ていました。エンディングテーマ「風のメルヘン」(サーカス)は令和の今も語り継がれる名曲です。

スクリーンショット 2025-07-09 132323.png

https://www.youtube.com/watch?v=vI3S-8oakzc

不倫とも解釈できる「攻めた」歌詞になっていますが、教育作品のエンディングになぜここまで攻めるのでしょう…?

そして歴史番組の本編の内容と歌詞が合っていないような…

風のメルヘン.png


放送から42年目にしてやっと理解できました。合っていないどころか、1400年の時を超えて完璧にシンクロしていることがわかりました。

「遠い過去から私たち愛していたような気がするの」

「めぐり逢えたのが遅すぎたねと」

「この次の人生も逢いましょう」

…遠い過去…今にも別れが来そう…この次の人生…これは!

万葉集! 額田王だ!

スクリーンショット 2025-07-09 125313.png
川崎幸子作博多人形『額田王』より画像引用

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
まさか額田王の御歌(みうた)万葉集が題材だったなんて!
…単なる不倫の歌詞では全くなかった!
深い…深すぎる。味わい深すぎる

(それにしても、まさかエンディングに万葉集を持ってくるとは、いったい何処の誰が発案したのでしょう?)


閑話休題。万葉集の解説を読むと例外なく、時代を超えて人の心に響くとあります。教科書で知識として、大脳新皮質レベルで理解できるのですが、サーカスの風のメルヘンを額田王の御歌と重ねると、1400年の時代を超えて人の心に響くことが、原始の脳、旧皮質レベルで実感できるのです。

そして民放のエンディングテーマですから商業ベースに乗せなければ億単位のカネを投資するスポンサーは納得しません。加えて作詞者、作曲者、歌唱者のサーカスの皆さんにも生活というものがあります。①教育という公益を満たすだけではなく、②大資本の事業益も、③関係者の他益も満たす、売れる曲でなくてはならないのです。

普通なら不可能なはずですが驚くべきことに、飛鳥時代の万葉集の魂を1400年後の現代の歌詞に重ね合わせ、深く共鳴させる離れ業によって、それらすべてが完全に満たされているのです。

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発案者並びに、関係する人すべてが天才的仕事をしたというほかありませんが、もうひとつ、触発という要素も大きいと思うのです。額田王が現代のクリエイターを触発したのだと。
具体例をあると、出版界では信長を書けば売れるといわれます。

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歴史作家の塩野七生氏によれば、以下のプロセスを辿るといいます。

→信長という人は作家を触発する
→触発された作家は自分の実力以上の才覚が引き出される
→作品が面白いので読者も喜んで読む

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写真:塩野七生(しおの ななみ)


多くの書き手を触発するタイプの歴史上の人物って、ごく希少なのです。日本史を鳥瞰しても5人いるかどうか…。

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三英傑で検証します。
家康のシェフ」…残念ですが売れません。
秀吉のシェフ」売れませんね…。
信長のシェフ」だけが売れるのです。タイトルだけでもう面白い

書き手というのはクリエイターです。多くのクリエイターを触発させるというのは、ゼロから1を創造してしまう程のパワーのある人物だけなのです。織田信長という人は、たった一人で中世から近世へと世の中を変えてみせました。信長のシェフについて余談。物語は本能寺の変へと進んでいきますが、主人公や武将の機転により一命をとり止める→歴史が変化→信長は征夷大将軍へと…。
サーカスの風のメルヘンは名曲です。まんが日本史エンディングに関わったクリエーター全員を触発し、才覚を引き出した、額田王の存在感を思い知らされます。古代日本の創造主たる、中大兄皇子と大海人皇子の魂を揺さぶる女性の存在感は、現代の創造主たちの魂をも揺さぶったのです。


閑話休題。しかし万葉集の額田王の御歌ですが、1400年後のCITY POP(1970年代後半から1980年代にかけて日本で制作され流行した、ニューミュージックの中でも欧米の音楽の影響を受け洋楽志向の都会的に洗練されたメロディや歌詞を持つポピュラー音楽のジャンル)にのせても通用するこの恒久性に、改めて驚かされるとともに、そんな古代の日本の歌を同じ国の、同じ日本語で聴くことのできる幸せを感慨深く思わずにはいられません。日本で日常を暮らしていると、な~んだそんなの当たり前じゃん(笑)…のように思いますが、もちろん当たり前ではありません。

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青塚古墳群秘史(古墳の一族の物語)


皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
記事タイトルの、青塚古墳」ついて、犬山市教育委員会の公式HPから引用します。

■青塚古墳群
周辺にはかつて多数の小さな古墳があり、青塚古墳群を形成していたことがわかってます現在は、わずかに数基が残っているだけです。(後略)

さらりと、青塚古墳群を形成していたことがわかってます …と書いてありますが、なぜそれがわかるのでしょうか?

こちらをご覧ください。記事主の曾祖父が作成した図になります。

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「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告 第八」によれば、「大正5年の曾祖父の調査図が第一次資料」になっています。これからも松山鶴吉氏の調査によれば…と、引用は続けられるでしょう。曾祖父は郷土史に名前を残したことになります。調査図は曾祖父が個人の資格と、個人で拠出した資金による、所有権に基づく発掘調査の折に作成されたものですが、しかしどうして学者の研究論文ではなく、曾祖父の調査図なのでしょうか?

戦前の考古学研究費(スポンサー獲得)は学者個人の人脈頼み。

結論から述べると「明治・大正当時の世相がそうだった」ということになるのでしょうか。ご本家当主の松山鶴吉は世襲名 松山忠左衛門を名乗った最後の人です。大正5年当時、青塚古墳は忠左​さん個人所有の前方後円墳で、のちに尾張二宮の大縣神社さんに寄進しました。
明治~大正当時は食糧難の時代でした。近代化による急激な人口増と米食率の増加によって食糧難は、より拍車がかかりました。国際連盟の常任理事「一等国ニッポン」でしたが、その影では食べていくのに精一杯の時代でもあったのです。↓グラフは明治期の米の需給です。※こうした米の需給の逼迫と価格の高騰は、大正7年(1918年)に発生した米騒動の背景にもなりました。

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礼節ト遺跡ハ、主食足リテ

昭和初期には米の自給率は85%まで落ち込みます。いま古代遺跡への関心は広く世間に浸透していますが、これは主に戦後の文化であって、以下のプロセスを辿ったといいます。
①敗戦によるアイデンティティの喪失と、
②戦後復興とインフラ整備により急激に変わりゆく国土。
③それらと古墳に代表される日本人の古代への情熱は表裏一体を成し、
④戦前には左程見向きもされなかった、遺跡発掘のニュースは世間の興味関心を呼び、
⑤「岩宿遺跡発見!」「登呂遺跡発掘調査再開!」など、たびたび新聞誌面を賑わせました。
※非常に多様で不安定な資金源に依存していた考古学会も次第に組織化され、公的資金提供制度が確立されるようになりました。

人々が積極的に古代に目を向けようとしなかった明治・大正時代、考古学者も、歴史家も、地元楽田村の人々さえも然程関心を示そうとしなかった青塚古墳群に、いち庶民の曾祖父がなぜ、消えゆく倍塚の記憶を後世に残し、青塚古墳の寄進をしたのでしょうか。記事タイトルの通り、そこには郷土の歴史物語がありました。

楽田には県下最大級の前方後円墳が複数基

ここで少し余談です。愛知県最大の断夫山古墳が造られるまでの200年間、前方後円墳に限れば、青塚古墳は尾張國で最大規模の人工築造物でした。江戸期に例えるなら名古屋城が楽田村にあるようなものです。300年、400年と長きにわたって濃尾で最も栄えた土地のひとつは楽田だったといえます。200年というのは非常に長い年月です。たとえば明治維新から令和の現在まで、まだ160年も経っていません。楽田に100m級の前方後円墳は、実は青塚だけではなく、楽田城城山のすぐ北側に、もう二つありました。城山城址(楽田小学校)と対比するとその巨大さがよく分かります。前方後円墳では愛知県内で3番目と5番目の大きさになります。城山そのものも70〜80m級の巨大古墳だったと記事主は解しています(城山古墳)。

楽田城址との対比.jpggemini.png
google Geminiによる再現図


【愛知県の前方後円墳】

断夫山古墳(熱田区):墳丘長約151メートル
青塚古墳楽田村):墳丘長123メートル
城山第1号墳楽田村):墳丘長約120メートル
白鳥塚古墳(守山区):全長約110メートル
城山第2号墳楽田村):墳丘長約100メートル

城山古墳楽田村):墳丘長約80メートル
長塚古墳楽田村):墳丘長約80メートル
城山第0号墳楽田村):墳丘長約70メートル

楽田村には七大古墳群があって、消滅した古墳も含めて200基あまりとなると、日本では百舌鳥古市古墳群に次ぎ、久津川古墳群に並ぶものになります。(なお古墳群の存在を今の技術で証明するためには測量・発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえます)

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記事主はこれらを城山古墳群と仮称しています。実在が確認できるなら世界遺産暫定リスト(Tentative List)入りレベルであって、巨大古墳が多く存在したのを現在に例えると、名駅前に巨大ビルがたくさんあるようなものです。そのように、長きに渡り栄えた地域がなぜこんな片田舎たる楽田の地なのでしょうか?

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藤子・F・不二雄先生「 ドラえもん」のび太もたまには考える小学六年生 1983年3月号/大全集10巻より、画像引用

楽田の古墳群は、百舌鳥・古市古墳群に次ぐ、国内2番目の規模

結論から先に申し上げます。要因のひとつはコメの品質で。青塚古墳群や、蓮池古墳群、姫之宮古墳群、姫之宮南古墳群、三ツ塚・長塚古墳群そして城山古墳群と、200基あまりの古墳があるだけあって、旧楽田村で穫れる米は地形的に尾張の平野地域で最も美味いそうです。
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七大古墳群のある楽田村の田んぼで獲れる米が美味い…これはどの考古学資料にも載っていませんし、学問の分野ではないので、これからも載ることはありません。↓画像は楽田の里山と田風景です。里山の花崗岩の天然フィルターで濾過された天然水は、地上と地下の水脈になって、楽田の田を潤します。
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楽田のコメは、古代の'新潟産無農薬特別栽培コシヒカリ'

状況証拠からの推測に過ぎませんが、楽田の地は非常に豊かであって、平たくいえば「楽田のコメは売れた」「換金率のいい古代の金融商品」だったのです。いちど美味い米を食べると、もう後には戻れないものです。

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金明水.jpg尾張冨士大宮浅間神社 湧き水「金明水」※X ながまる様のポストより画像引用させていただきました。ながまる様有難うございます。https://x.com/nagamaru602/status/1939522434211983417

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落差18mの八曾滝は、楽田を流れる薬師川の水源のひとつ。古来より西日本でも屈指の名水として知られる。環境省「平成の名水百選」より https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=57


古代の稲作と地勢

①楽田より西の濃尾平野はかつては東海湖と呼ばれる巨大な湖でした。(※濃尾西部は陸化した湖底土のため凝集性や侵食抵抗性が極めて小さく、けっして肥沃とはいえませんが、それを逆手にとって地域の強みとし、養蚕業と繊維産業が大いに発達しました)

②楽田の南側も東海湖の名残で名古屋城のすぐ北側まで湿地帯が広がっていました。(※この地域もまた、今では県内有数の航空宇宙産業の集積地として発展しています)

お隣の※③美濃国では木曾三川を筆頭に河川の氾濫に悩まされる土地柄で、④三河国や⑤知多半島は、大きな河川が少ない台地状の地形であることなどから、伝統的に慢性の水不足に悩まされてきました。この歴史的な課題を解決するためには、豊川用水や愛知用水といった大規模な水利事業を待たねばなりませんが、現在では自動車産業、重化学工業、セントレア誘致成功と、大きな発展を遂げています。

※③美濃国最大古墳昼飯大塚古墳のすぐ近くにも、やはり「楽田町」の地名があります。明治22年当時は安八郡楽田村でした。安八郡楽田村の近辺も、土地が肥沃かつ地下水も豊富、良質のコメが穫れるのではないかと思われます。↓画像は現在の大垣市楽田町。豊富な水量と、やはり土地の力強さを感じます。

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スタープラチナ:ザ・ワールド ≒ 青塚古墳:昼飯大塚古墳

余談ですが、濃尾平野の二つの巨大古墳と、二つの楽田村には密接な関連性があると記事主は解します。青塚古墳と、昼飯大塚古墳の墳形は、後円部に比して前方部が短い形状で、瓜ふたつです。状況証拠に過ぎませんが楽田という地名には「神々もお喜びになられるほど美味しいコメが穫れる御田」という土地の記憶があると考えられます。土地・ヒトの趣味嗜好・実益が三位一体なら、まず縁戚関係を考えるべきでしょうが、今となっては証明することは不可能なのが無念です。

首から下はジョナサン=ジョースター.png同じタイプ.png

※美濃国の昼飯大塚古墳と楽田町の位置感覚につき、尾張国の青塚古墳と大縣神社の方向性を参考にしてください。二つの古墳に共通しているのは大和朝廷の使者を迎えるため、古代の一族の居住地(現尾張大縣神社旧美濃楽田城)からみて王家の台地の端たる領地の西の端(玄関口)に古墳を造営したということです。逆に一族の姫が大和の大王(おおきみ)に嫁ぐとき、故郷との別れを告げるため何度も古墳を振り返り、涙したかもしれません。大和朝廷は、豪族との婚姻を通じて政治的な連携を強化し、支配体制を確立・維持しました。これは古代日本の重要な統治戦略の一つでした。 

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楽田村の祖先「子孫に美田を残せ」

余談続きます。尾張楽田の土地は木曽川扇状地の粘土質により、保水力と水はけのバランスに優れ、稲の根が安定して土中に深く伸びやすく、有機物や栄養素を適切に保持するといいます。楽田の稲に土壌の酸欠状態というのは有り得ないのです。先祖代々大切に守られ、水田の底に沈みこんだ、きめ細やかな楽田の土は、もはや何ものにも代え難いのです。仮に、「楽田の水田と同等の土をつくれ!」と何処の誰かが命令したとします。完成するのは同じ手間暇をかけたとしても1700年後、もっといえば木曽川の堆積で十数万年…要するに再現不可能です。
さらには里山が近くにあり水質が抜群に良くミネラルが豊富、台地の縁にあるため地下水脈水量も豊富。当家の庭にも手押しポンプがありました。昭和40年代、近くに工業団地ができるまでは、綺麗でおいしい豊富な井戸水がタダで使いたい放題使えたそうです。夏場はスイカも冷やしたと言っていました。

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比較的内陸部にあるため寒暖差もあります。楽田〜各務原の辺りは濃尾平野南部に比べて夏の昼間の平均気温が1℃高いそうです。風が吹きません。各務原飛行場・小牧飛行場があるくらい「風が穏やかな土地」なのです。記事主は現在名古屋市内在住ですが、灼熱の楽田?よりも涼しく感じます。そんな灼熱の楽田も早朝に限っては里山が太陽光を遮り、冷涼で快適です。

記事主も少年時代、祖父のお墓のある楽田の里山にクワガタを探しに行ったものです。真夏というのに、それはそれは冷んやりしていました。そんな里山のおかげで朝の空気は冷やされ、米粒の中にデンプンがより多く蓄積され粘りや甘みの強いお米が育つと思われます。

…そのような寒暖差かつ、まとまった平地(楽田五千石)と、近隣地域に比べて米作りの好条件がいくつも重なっていました。巨大古墳が存在するくらいです。古代の権力者も、おそらく大のコメ好きで、この米どころの楽田の肥沃かつ気象変動に強い土地を気に入り、趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤としたのでしょう。※近隣村では、楽田村よりも山間部の旧今井村のコメのほうが、もっと旨いことを記しておきます(個人の感想です)。がしかし、古墳時代や、南北朝時代当時では山間部の耕地面積は限られていました。輸送手段のトラックなんてもちろんありません。平野部でこれだけの品質で、しかも纏まった実質五千石穫れるのは現実的に大きかったと解します。

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葉栗・丹羽十人衆

楽田のお米は、古代の権力者だけではなく、南北朝時代以来、飛保の曼荼羅寺さんへの奉納米としても珍重されてきました。これは旧楽田村の松山一族の檀家しか知りません(笑)。お寺の他の檀家さんは現金かお米(ほぼ現金)のお布施のところ、楽田のお米だけは、コメが大幅に値上がりする前の、令和のつい最近まで、文字通り楽田だけが最後の最後までお寺の求めで米の奉納をしていたそうです。米の奉納は800年間先祖代々延々と当たり前に続いてきたことなので、楽田以外の他の丹羽十人衆ご子孫の檀家さんが(ほぼ現金)でお布施しているなんて、一族の誰も気が付かなかったそうです。

曼荼羅寺さんがこっそりと伏せておく?くらい、曼荼羅寺さんも太鼓判の、曼荼羅寺さんも大好きで甘みがありもちもちとした食感で、冷めても美味しい、濃尾平野のココだけでしか採れない究極のお米です。「身土不二(しんどふじ)」ではありませんが、人間の身体とそれが生きる土地と農作物は一体であって、切り離せません。他地域のブランド米もバツグンに美味しいのですが、尾張の気候風土に合ったコメを食べるほうが、よりおいしく、健康に良く寿命も延びることを曼荼羅寺さんもよくご存じだったと思うのです。曼荼羅寺の歴代おっさま、もちろん長寿命です。

他の丹羽十人衆のご子孫? 丹羽十人衆ってなんでしょう? 


松山家のご先祖様は清和源氏の一流で、楠木正成(大楠公)と共に千早城の戦いに参加しています。正慶乱離志『楠木合戦注文』によれば、天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、四条少将以下、楠木一族、(中略)、判官代 松山ならびに子息等、(後略)…と記録されています。もともとは後醍醐天皇のもとで政務を補佐し、御皇室の土地の管理や年貢の徴収、庶務などを担当(判官代)していた京武士で、大楠公に加勢しました。松山一族郎党は、おそらく40~50人の加勢ですが、技術顧問としても存分に力を発揮したと解します。松山一族は土木工事・治水事業の技能集団でもあったらしく、兵庫県三田(さんだ)市(松山の庄)には多くの砦や城、そして松山の堰を築くなど、善政によって地元領民から感謝されています。千早城の戦いの、二重の壁、丸太落とし、石落とし等の仕掛けにも、松山氏の建築土木技術があったと考えるのが自然ではないでしょうか。

…しかし、お味方800人に対し、鎌倉軍は一説によると100万人。戦力差は1:1250です。鎌倉軍を足止めして、幕府の権威を失墜させれば勝利と、頭ではわかるのですが、それにしても我がご先祖ながら凄い気合いと、決断力です。

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趣味嗜好と実益

時は流れ、ここ尾張の國 丹羽郡の地に根を張り、曼荼羅寺(後醍醐天皇の叔父が開山)を菩提寺とした、「負けると分かっている湊川の戦いに大楠公のために、あえて参加し、生き残った」俠気(おとこぎ)ある「葉栗丹羽十人衆」の一人ですが、なぜ松山一族だけが曼荼羅寺から遠く離れた、里山に近い楽田の荘を根拠地に決めたのか、疑問でした。以前は対北朝戦に備え、大楠公伝統の山岳ゲリラ戦の軍事戦略のために寺領の荘官として任官された…と解していました。実際200年後、尾張本宮山は織田信長が一大城塞の候補地にするほどでした…が、まさか古墳の一族と同じ理由「趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤とした」だったなんて!…歴史は繰り返すものです。元の官職が判官代なので土地を見極める眼力は確かだったのもありますが、実は他にもう一つ大きな理由「太古の記憶」があったのです。美濃楽田の一族の考察と同じく、土地・ヒトの趣味嗜好・実益が三位一体なら、まず血縁関係を考えるべきなのです。

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日本の国だけに起こり得る物語

先に記事主は「大和朝廷は、豪族との婚姻を通じて政治的な連携を強化し、支配体制を確立・維持。これは古代日本の重要な統治戦略の一つ」と記述しました。楽田の巨大古墳の一族の血脈も、女系を通じて天皇家に流れていることは巨大古墳の存在から考えると極めて可能性が高いと解します。

尾張國では三人の王女(姫)の入内がつとに知られています。

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大海媛(おおあまひめ)は尾張連(おわりのむらじ)の祖の王女で、景行天皇の妃となり、大碓皇子(おおうすのみこ)と小碓皇子(おうすのみこ、後の日本武尊)の母にあたります。
宮簀媛(みやずひめ、生没年不詳)は尾張國造の女性。日本武尊の妃(きさき)であり、熱田神宮の創祀(草薙御剣)に関わる重要人物です。

姫巫女ノ舞『祈り』 宮簀媛物語〜熱田神宮の御祭神・日本武尊の御妃〜 宮ノ舞 巫女舞 奉納舞
熱田神宮 「宮ノ舞 巫女舞 奉納舞」youtube動画サムネイルより画像引用 https://www.youtube.com/watch?v=rk07A8R1z28

目子媛(めのこひめ)は継継体天皇の皇后、尾張連草香の娘。「安閑天皇」「宣化天皇」の母宮にあたります。現存する愛知県最大の断夫山古墳は目子媛の父である尾張連草香の墳墓とされます。
このように大和朝廷尾張國は強固な結びつきがありました。

令和書籍の「記紀が伝える日本統ー」の記述を引用します。

大和朝廷が成立した当時の国内の文字資料は見つかっていませんが、「日本書紀」は、神武天皇御即位の後、第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの間に列島内の同盟政策が進められたことを記しています。
古事記」にはかなり詳しい系譜が書かれていて、皇室が各地の豪族と婚姻関係を結ぶことで同盟政策を進めていったことが反映されたものとの見解があります。

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そして先述の通り、松山一族は、多田源氏の流れをくむ清和源氏の一流(継体天皇天智天皇桓武天皇清和天皇の子孫)でもあります。https://www.rescue-119.jp/news/archives/1695 

南北朝時代にご先祖様が感じ取ったかもしれない土地に対する既視感、記事主には解ります。それは古代楽田の古墳の一族の子孫が、千年の月日を経て楽田の地に戻ってきたということ。さらに時を経て大正時代には1600年ぶりに青塚古墳の所有権も、子孫の松山鶴吉に戻っていたと。

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曽祖父が青塚古墳を大縣神社に寄進し、未来永劫の保存を願うことは、子孫として必然だったのです。これは「神話の世界から今に続く歴史ロマン」であって、もはや手塚治先生の「火の鳥」の世界です。
神皇正統記ではありませんが、このように過去と未来が一本に続く郷土の歴史物語があり得るのは日本ではもちろん、世界でも唯一、青塚古墳のみではないでしょうか。
皇室はタイムカプセル」という表現は、御皇室が伝統文化や歴史的様式を現代まで継承・保持しているという側面を比喩的に表す際によく使われますが、古代の血脈はもちろん、まさか1700年前の人々の記憶や、土地の記憶まで保存されているなんて! 

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楽田小学校の施設充実は明治5年義校以来の伝統

楽田の青塚古墳は(現存では)愛知県で二番目の規模ですが、楽田にはもうひとつ、県内二番手級があるのを御存じでしょうか。それは楽田小学校の歴史です。愛知県で一番古い小学校は、名古屋の丸の内小学校(名古屋第一義校)の明治4年10月ですが、楽田小学校は明治5年6月14日開校です。wikiで調べてみると近隣の犬山、羽黒、城東、小牧、古知野…すべて明治6年以降とあります。名古屋武家屋敷の第五義校、筒井小学校(明治5年10月)よりも4か月早い開校になっています。廃藩置県により名古屋県となった後の1871年(明治4年)9月、県は一般庶民の学校として民間有志による「義校」の設置を奨励しましたが、当時の楽田村の村長、松山庄七をはじめ地元有志の尽力で、旧丹羽郡内では最も早く、愛知県内でも5番目に早い開校に至りました。都心でもない片田舎の義校にも関わらず驚異的な早さと解しますが、じつはこれも古墳の一族の物語と無関係ではないのです。


ここでちょっと飯テ…コーヒーブレイクです。楽田小学校の創立記念日は(太陰暦)6月14日ということになりますが、なぜ6月かというと、田植えを避けるためです。私の父の小学校時代ですら田植え休み(農繁休暇)があったと言っていました。(皆様は、田植えのあとのお昼休憩に、ご近所さんや、友達、親戚一同で食べる、その郷土、その家伝来のお田植え料理って世界一旨いことをご存じでしょうか?料理が染み入ります。大勢の人にご披露するので、嫁・姑もこの日ばかりは自然と一致団結、腕の見せ所でもあるのです)

IMG_7754.jpeg明治5年当時の田植えは旧暦5~6月に行われていました。田植えに至るまでにも、田起こし(たおこし)、基肥(きひ)、畦塗り(あぜぬり)入水、代掻き(しろかき)が必要で、しかも五千石の広大な楽田の水田です。名古屋の第三、第四義校のように新春開校…という訳にはいかなかったのです。愛知県最速級で開校しようと思えばできないこともなかったと思いますが、村民の反発等、現実との擦り合わせの結果でした。農家にとっては子どもは重要な労働力として期待されていたのです。(小中学生って無限の体力がありますからねぇ…)近隣の義校もやはり、明治6年~8年の田植えや、稲刈りが終わった頃に開校しています。

校訓「強く・明るく・正しく」のルーツ

閑話休題。松山庄七の長子、松山義根(のちに第一回帝国議会 衆議院議員)が初代校長となり邸宅を義校に提供しましたが、江戸時代に名古屋相撲の相撲部屋「松山部屋」が松山の邸宅にありました。庄七本人も体躯が大きく、部屋の親方(オーナー)兼力士であって、両大関の三ツ湊、相見山も所属していた部屋ですが、その建物や土俵が残っていて校舎としたようです。私の少年時代にも、丸い土俵のあとが残っていました。(旧松山庄七宅は私、記事主の父の実家です)きっと明治時代の義校生たちも、元力士の校長の父の本格的指導のもと、勉学の合間に相撲を取って運動にも励んだのでしょう。↓は旧釜石製鐵所相撲道場より画像引用。土俵は、このような雰囲気だったと思います。

釜石製鐵所相撲道場.png

もしかすると、日本初の運動施設のある小学校は楽田小学校だったかもしれませんし、松山庄七は日本の小学校初の体育の先生だったかもしれません。(元親方の血が騒がない筈がありません)。以下は記事主の想像ですが、中らずと雖も遠からず…といったところでしょう。
…それは明治5年夏のある日の出来事でした。プロ仕様の本格的土俵を、日々横目でちらちら見ながら過ごす義校生たち。校長先生!アノ土俵デ、相撲ヲ取リタヰノデス!待ってましたとばかりに、義根校長は母屋から父、庄七を呼んだことでしょう。「ヨシ!全員褌一丁!になれ!」義校生たちは互いに顔を見合わせ「ヤッタア!(笑)」と大喜び。稽古の後は敷地に接して南を流れている台地の端の水量豊富清涼な明治時代の川で土俵の土だらけの身を清めて、ついでに水練・川で遊んで更に大喜びだった事でしょう。日本の義校初の水練の授業です。(令和現在、暗渠になっています)。
その次の日も、授業の合間や終わりに稽古は続きました。「四股を踏むには…鉄砲柱に…擦り足は…立ち合いは…土俵の上では強く!、(稽古の後は明るく!)…正しい礼儀作法は…」校生たちがケガをしないように、基礎からみっちり教えたに違いありません。例えるなら豊山町の野球少年たちがイチローから野球を教えてもらえるようなものでしょうか。学業と運動、強く・明るく・正しくの、昭和:城山健児 → 令和:城山っ子の原型は「上から強制されたわけではなく、義校生たちが自ら望んだ自然発生的な結果として」明治の義校時代から既にあったと記事主は解します。発表会の演劇で再現をすれば児童にも分かり易く150年前の歴史と校訓の由来が学べると思うのです。もちろん児童ひとり一人全員が主役です。

楽田村と米百俵の精神

当時の松山一族のパワーを見る思いがします。源泉は楽田の持つ高品質のコメのチカラであって、系譜を辿ると古墳の一族のパワーに行き当たるのです。詳細は省略しますが、楽田村時代の基金は犬山市に統合されても財団法人として存続しています。私の祖父(松山鶴吉の直系)も財団法人設立のために一生懸命奔走したと、叔母から聞いています。義校以来の伝統「施設の充実」は後の時代にも継承されました。昭和30年代40年代には、ミシン50台寄贈、オルガン50台寄贈、校内放送設備に、25mプール建設費補助等、地方の公立小学校にもかかわらず、施設の充実ぶりには目を見張るものがありました。基金の利息によるものです、この楽田村の先人のお金の使い方を小学生のときに先生はなぜ授業で教えてくれなかったのか?と思うと悔しくてなりません。身近にこんな素晴らしい、お金の使い方の教材があったのかとリアル米百俵です。カネは教育(人材投資)に使われたのです。この基金3億5000万円と山林は、法改正で存続困難となった平成24年まで独自財源として残り続け、体育館建て替えで有終となりました。古墳の一族から小学校の新体育館建設に至るまで、1700年間一本の系譜で繋がっているのです。楽田版「米百俵」も学芸会を通じて児童には勿論、父兄にも知ってもらいたいものです。

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永岡藩 小林虎三郎「米百俵の精神」より画像引用


楽田の「米百俵のカネの使い方」もそうですが、私の小学校在学中に、楽田小学校の歴史も聞いたことがありません。どうしても松山一族の属人性に行き当たるので、教育現場で教えることが難しいかもしれませんが、古墳時代から連綿とつながる郷土の歴史として、何らかの工夫をして語り継ぐことは必要ではないでしょうか。例えばですが清和源氏松山一族の発祥の地、兵庫県の三田(さんだ)市立三田小学校と姉妹校提携を結び、年1回の特別歴史授業をするなどは「あり」かもしれません。前述の通り、三田(さんだ)には松山一族の治水事業の跡で「松山の堰」がありました。写真の武庫川の対岸に巨大な堤があります。この治水事業は武田信玄の信玄堤よりも200年先駆けています。そんな松山弾正の一族の子孫が尾張の楽田に移り住み、日本全国でも先駆けた小学校を創った…三田小学校の皆様にもぜひ知って頂きたい歴史です。

松山井堰.gif
松山の堰につき、三田市文化協会様の公式ホームページより画像引用させて頂きました。
https://sandashibunka.grupo.jp/blog/5021524

以下は昭和22年、米軍空中写真を基にした、記事主の推定による加筆です。
松山の堰01.jpg写真を見る限り、蛇行の痕跡がある「暴れ河」であったことがわかります。何十年~百年に一度の豪雨、洪水のたびに流路が変わったのです。


閑話休題。私としては、1700年前も、南北朝時代も、今も変わらぬ平和でおだやかな田舎の楽田村が、1700年後も、3400年後の未来も、古代と変わらず美味しいコメを作り続けてほしいと願わずにはいられません。

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名鉄小牧線沿線「田県神社~楽田」.png

青塚古墳のガイダンス施設は、ほんとうに素晴らしい施設です。記事主個人としては「レストランを併設すればいいのに」と常々思います。楽田のコメを実際に来て、観て、味わってもらえば難しい説明よりも一発で美味い!古墳の一族が楽田を選ぶわけだ」なるほど、そうか、なるほど…そういうわけかと心の底から納得して頂けるでしょう。楽田で穫れた、ここでしか味わえない1700年伝統の究極のコメを、最も旨味の引き立つ薪炊飯で提供する。外国人観光客は、薪で炊飯の炎と伝統文化に見入り、あまりの美味しさに目の玉が飛び出るくらい驚いて、土産に5Kgと小型のジャパニーズ羽釜とセットに2万円で販売して飛ぶように売れるというのに。ちょっとした鎧の武者が小牧長久手の戦いの戦場の炊き出し(赤味噌ベース)のリアルな再現も欧米の人々に大ウケすると思うのです。…しかし、そんな事はけっして100%絶対にやらないのが楽田村の良いところでもあるのですが。(1000年期目線で物事を考える楽田の人々)

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画像引用:日テレニュース【大好評】“なんてウマいんだ!” ニューヨークの小学生に「おにぎり」配布 “日本のお米の良さ”アピール

本題に戻ります。…ちょっとだけ楽田城。

閑話休題。ここで冒頭の青塚古墳の寄進の話、「古墳が次々に消えていった時代の話」です。なぜ次々に倍塚が破却されたのかというと、現代風にいえば、換金率のいい金融商品になったのです。倍塚を破却して土壁にして売って、跡地は田んぼにして高品質の米を収穫すればが立ちました。そのようにして青塚古墳群が次々に破却されていきました。古墳が生き残るには厳しい時代だったのです。曾祖父は少年時代から青塚の倍塚が次々に消えて無くなるのを目撃していたはずです。大正5年の調査図でも「現存セザル塚」がすでに九つもあります。「せめて青塚古墳だけでも」と、私財を投げうって、遠い御先祖の墳墓たる青塚古墳を護り、地元の神社に託すことで未来永劫の保存を願ったと解します。

歴史の遺産は無くなるときは一瞬です。もう二度と元には戻りません。我が母校に楽田城の城山がありました。太閤秀吉の本陣にもなったお城ですが、私の小6の時に平地になってしまいました。運動場の真ん中に城山があっても、何の不便もありませんでした。誇らしい城山(城山古墳)でした。

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それにしても青塚古墳ですが、1700年以上もの長い年月、よく原型を留めて保存されています。手を加えたのは豊臣秀吉(配下の森長可。長可は森蘭丸の兄)くらいのものです。(小牧長久手の戦い)
現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。古代と中世、近代と現代が調和しすぎて「脳がバグる」美しさと、力強さです。それは地元青塚の集落の皆さん1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。青塚古墳は国の史跡に指定されていますが、本来なら青塚集落の皆様並びに先祖代々こそ、全員が国の史跡(人間史跡)なのです。(青塚の中の人たちは、こんなこと口が裂けても絶対に言いませんので、記事主が代わりに言いました)。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。

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写真は昭和時代の青塚古墳です。周辺には見守るように田畑と民家が並び、完璧な防犯体制が敷かれていました。墓荒らしなんて入る隙もありません。
小学生時代、学年全体で古墳見学をしましたが、どうしても古墳のふき石が剥がれて下の田んぼに落ちます。地元のばあさまが、そのつど、文句のひとつも言わず、地道にひとつひとつリアルタイムで修復するのです。あの光景も忘れられません。1700年以上奇麗に保存されるわけです。

記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。楽田城の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて古墳を訪れる事のできる最後の日でした。青塚や周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました)

青塚集落、畏るべし

平成初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の青年団と、支える家族の人たち総出で行われる一大イベントかつ、神事でした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。
楽田村は「集落あって村なし」です。個別の集落ひとつ一つが小さな村並みのコメの収穫量と、高品質による経済力とパワーと独立性を誇っていました。また過去200年に渡り尾張國最大の築造物が、ここ青塚集落に存在したという事実(郷土集落の誇り)も見逃せません。青塚古墳が素晴らしいとすれば、それは(1700年間に渡る日本一の縁の下の力持ち'the power behind the throne'を極めた)青塚の人々が素晴らしく、また自尊自立の力も並外れて強いのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。

記事の続き

 

まとめ(なぜ成績なのか?)

①3000年前の国際通貨は宝貝だった。※アンダーソン (J. G. Andersson)  松崎寿和訳『黄土地帯』1987, 六興出版
②金文によれば、周王朝はa.財貨、b.諸侯に下賜する賞賜、c.呪術的装飾品、d.遠くは印度との交易(後のシルクロード交易)の媒介等ために、宝貝が必要だった。
③国際的に競争力のある高品質の絹織物を輸出し、東南アジアから宝貝を輸入した。※後の漢代以降、絹織物(シルク)はシルクロードを通じてユーラシア全域に伝わった。
④より多くの宝貝を得るため、周王は周辺諸国を攻め、華表を立て、蚕糸織布他を賦貢として取り立てることを、配下の軍士たちに命じた。
⑤やがて織布の賦貢を表すために、甲骨文字の時代には無かったという漢字が新たに作られた。
の納入が規定に達することを成績といい、達しないことを不績といった。


~ここから続き~

成績は軍士たちに課せられた重い責任だった。その失敗を敗績といい、敗績は全てが終わることを意味した。
⑧このDEAD OR ALIVE の評価構造と、後世の官吏登用試験(科挙制度)のAll or Nothingの評価が、その過酷さ等において余りに酷似しているため、いつしか学業や試験の評価に成績の隠語・試験関係用語がブラックジョークとして比喩的に使われるようになった。

⑨用語が浸透し、ジョークの要素が薄れ往き、一般語になった成績は、浸透の仮定で、周の時代の成績不績敗績、全ての意味が、成績に統一(吸収合併)されるが、難関試験の9割以上が不合格になることを考えると、敗績の隠された存在感が内実として大きい。

⑩古代と現代の成績で決定的な相違点。古代の敗績に命の保証は無かったが、試験は不合格でも命まで取られることはない。

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ファミリーヒストリー「小島よしお 〜ひたむきに天職を追い求めて〜」を視て昔を思い出す

 

令和7年2月19日(水)放送のファミリーヒストリー(NHK、よる7時57分)に小島よしおさんが出演。ご先祖さまが愛知県犬山市の旧入鹿村出身ということで、びっくりした。真っ先に同級生の小嶋君を思い出した。其処は彼となく似ているのだ。


同級生の小嶋君の前に、かつて入鹿村だった「入鹿池事情」について話すことも、あながち無駄なことではないと思う。入鹿池に釣りに行くことは昭和の近隣小学生にとっては一大イベントだった。当時の土曜日半日授業のあと、午後にまた皆で集まって、当時流行ったスーパーカーのような自転車(少年用スポーツサイクル)を漕いで入鹿池を目指すのだ。昭和の少年たちを熱狂させたスポーツサイクルを1時間たっぷり漕ぐだけでも爆発的な高揚感があるというのに、さらにこの午前に学校、午後に入鹿池というのが、輪をかけて実に愉しかった。

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ちなみに日曜日の朝から皆で入鹿池に行っても左程楽しくない。午前中に学校で勉強して、速攻で昼をかき込んで、午後に釣りに行くからこそ素晴らしく良いのだ。そして暗くなった帰り道、後部エレクトロンを集団で煌めかせ、下り坂を疾走する…この無限大の良さは昭和の小学生にしか理解できないと思う。(もっとも皆フラッシャー球切れで、2~3台光っていれば良い方だったけれども)


しかしこの後部エレクトロンのデザイン、どこかで見たことがある…と思ったらあれですね。アルファードのフロントグリルとその周辺。シンメトリックな中央6行6列の数もピタリ一致しています。アルファードのデザイナーは宇角直哉さんですが、きっと小学生時代、彼もまた熱狂的な少年スポーツサイクルファンかつ、何らかの心残りがあるのでしょう。パブロ=ピカソではありませんが、少年時代の夢を大人の感性で現実化させると、売れる商品が出来上がるものです。

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松本零士少年の宇宙の夢は宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999へ。本田宗一郎少年の大空への夢はHONDAジェット、HONDAロケットへ。そして今の20代、30代はアルファード大好きです。宇角少年の1970年代の夢が、2020年代にアルファードのデザインに生まれ変わり、世代を超えて刺さるとは愉快じゃないですか。

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閑話休題。入鹿池まで行くと、ものすごく喉が渇きます。観光地たる池周辺の自動販売機は昭和当時150円と50%割高で絶対に利用することはできない。当時の私は月300円の小遣いだった。そういう訳で水筒持参が絶対だった。タイムマシンがあれば初入鹿池へ出発前の俺に教えてやりたい。きっと「未来のおじちゃん、教えてくれて、ありがとう!」と礼を言われる。


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しかし子供の人数が多くて楽しかったのはここまでだった。平成時代に突入し、高校から先は多すぎる世代人口が逆作用する。受験人口MAXの、大競争時代が始まるのだった。バブル崩壊前に小牧工業高校を卒業→トヨタグループに就職が、実は唯一の正解肢だったなんて、当時は知る由もなかった。

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タイムマシンがあれば中学生の俺に…きっと、俺のことだから「おっ!未来の俺、髪の毛まっくろけっけ(※名古屋弁)で、フッサフサ!」と人の話を全く聞かずに、斜め上のことにしか興味を示さないと思うが、それでも教えてやりたい。


タイム パラドックス再考

「いいか過去の俺、よく聞け。髪の毛の心配は要らないが、犬山南高校には行くな!滑り止めに私立の愛知高校も受かっただろう?小牧工業はもう間に合わんが、せめてそちらに行っておけ!少子化からの校名変更で母校の名がこの世から消えてなくなるぞ!バブルが崩壊して、氷河期が来るぞ!進学も、資格試験も、就職も、結婚も、子育ても、非残クレで新車購入も、首都圏に新築戸建て+ペットの犬も、とんでもなく狭き門になる」と。「野原ひろしは未来世界では有り得ないスーパーエリートになるんだぞ」と。

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住まいのお役立ち情報 様HPより画像引用 http://xn--homes-947h6p8122b.co.jp/cont/living/living_00217/

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センチュリー21 様HPより画像引用 https://c21-u.com/blog/2022/01/29/%E9%87%8E%E5%8E%9F%E3%81%B2%E3%82%8D%E3%81%97%E3%83%BB%E3%83%BB%E3%83%BB%E5%90%8D%E8%A8%80%E3%81%A0%E3%82%8F%EF%BC%81/


「言い忘れた。どうしても犬山南高校に行くなら芸術の選択科目で音楽は取るな。高校音楽はハンパじゃない。中学までとはレベルが違う。移調なんて微積より遥かに難しい。あれは幼少期からピアノを習わねば無理だ。車校に例えれば実技無し→学科だけでクルマの運転をマスターせよ!と言われるのと一緒だ。悪いことは言わない。書道にしておけ。1枚書いて提出して終わりだ。」「しかも移調は定期試験でgrammarと同一日に時間割が組まれる。前日の詰め込みは、とてもじゃないが間に合わない。結果、音楽も英語も大爆死だ。必ずそうなる。しかも後々まで響く。」

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音楽教育活動奮闘記 様のHPより画像引用 https://www.terrax.site/entry/hayamihamamihyou


「…さて、令和に帰ろうか。」
俺は'坊主頭の中学生の俺'を見ながら思った。当時の愛知県は管理教育全盛期。中学生男子は強制的に丸刈りの学校も多かった。人権も何もあったものじゃない。

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そんな2分刈りの頭をした過去の俺は、相変わらず訝しげに俺を見ていた。子供部屋の一面にはベタベタと昭和当時のポスターが張りまくってある。見ていると顔から火が吹き出そうだった。(ああ、恥ずい。よくもまあこんな恥ずかしいポスターを正々堂々と張っているものだ。信じられない。穴があったら入りたいとはこのことだ。)そしてこんな俺に子供部屋を与えてくれている死んだ親父!よくもまあ、こんな変なポスターを貼りまくっている過去の俺に文句ひとつ言わずに…。この部屋、この家一軒建てるのにどれだけ身を粉にして働いたのか…!ふとそんな事が頭に浮かぶのだった。

「そうそう、過去の俺よ。ゲーセン大好きだろう?」「そこの本棚にあるMycom BASIC MagazineBeepGAMESTを買って日々研究しているだろう?」
「どこのゲームメーカーがイチ推しだ?」
中学生の俺は即答した。

カプコン!
嬉しそうにニコニコ笑って答えるのだった。後世に有野課長の宿敵になるレッドアリーマーの手強さと方略法について、たとえばアリーマーを無視してひたすら右へ進み、段差のある所を2段上る→アリーマーは、「左から追いかけてくる」か「右へ先回り」してくる→高さをよく見て、立ったまま連射…などと俺に切々と語るのだった。
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「成程わかった、過去の俺よ。君の眼力は確かだ。中学生というのに、なかなかの腕と見る目があるぞ。平たく言えば投資家の素養がある。」
「'カプコンの強烈な個性が一番好きでサイコー!'って思ってるんだけど周囲から同意を得られないのだろう?」
「'いいんだ自分は孤独にカプコンが好きなんだ'みたいな。」
「その気持ちわかるぞ!なにしろ君は俺なのだから。実はそれでいい。投資家たるもの、己の眼力だけを信じろ。周囲は気にするな!カプコンは、いまに世界のCAPCOMになり時価総額は2兆円を超えるのだ!」
そんなに熱狂的にCAPCOMが好きなら「CAPCOMの株を買っておけ!まずは一単元からで構わない。気が向いたときでいいぞ。」

褒められて満更でもなさそうだった。何故なら彼は褒められて伸びるタイプなのだから。俺のことは俺が一番よく知っている。

「株?」「投資家?」「時価総額2兆円?」「一単元?」よくわからなそうな顔をしていたが、果たして…

麻雀学園ってあるだろう?Hボタンを連打するやつ。あれも実は byカプコンだ。」
あっと驚くタメゴローとした彼の顔を横目に、俺は元の世界に戻るのだった。

元の世界に戻ると、俺は大金持ちになっていた。

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「渇水と入鹿池」繰り返される再評価

閑話休題。旧入鹿村と入鹿池の歴史について、地元の小学生なら必ず勉強する。(令和の今はどうなのだろうか)学校の演劇の題材にもなった。思い起こせば平成6年大渇水の当時、受益市町「犬山市、小牧市、大口町、扶桑町」は入鹿池のおかげでぎりぎり助かったと聞いている。江戸時代に水没してしまった入鹿村の人々の犠牲のおかげで、いまがあるのだ。江戸時代から今日(こんにち)まで、いったい何度渇水の危機を救ってきたのだろうか。

※入鹿用水以外の木曽川水系は渇水によって時間給水制限を余儀なくされた。https://www.mlit.go.jp/common/830005899.pdf そんな大渇水から二十年を経た平成27年、入鹿池は世界かんがい施設遺産に登録されました。

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https://www.maff.go.jp/j/nousin/kaigai/ICID/his/attach/pdf/22_whis.pdf



令和7年5月14日 午後3時半追記。

先程、航空自衛隊所属の練習機「T-4」1機が航空自衛隊小牧基地を離陸直後に入鹿池に墜落したとの報道がありました。
突然のニュースに胸が締め付けられる。そして私自身が操縦士だったなら、果たして同じことができたのだろうかと。我が身可愛さに脱出のレバーを引いて…。 搭乗自衛官パイロットは凄いに尽きます。漢の中の漢です。ご無事を、ただただ願うばかりです。ご家族や関係者の方々の心中を思うと、言葉にならない。どうか一刻も早く状況がわかり、救助が届きますように。そして現場で懸命に捜索を続ける方々も、どうか安全に任務を果たされますように。憶測でしかないけれど、町中に墜落すると被害が大きいから小牧飛行場に帰れないとみて、墜落寸前まで操作し、住宅街に落ちないよう町を外れて入鹿池を目視し、脱出しようと思えばできたのに、あえて墜落したとしか思えない。パイロットの勇気ある着水に敬意を表します。入鹿池は小牧飛行場を離陸後、上空から見やすく、ちょうど良いウェイポイント (通過点) になっているので、ほぼ全ての自衛隊パイロットが目印にしているそうです。
この事故について、入鹿池が間接的に近辺の街中「犬山市、小牧市、大口町、扶桑町」を救ったと解します。入鹿池の水深がうまいこと衝撃を受け止めてくれて、隊員2人が無事に脱出できていないものか…。

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現入鹿池の旧入鹿村は、私の実家の2つ隣の旧村で、たぶん同級生の小嶋君のご先祖様も入鹿村の出身だったのだろう。声質と風貌が小島よしおさんと(そう言われてみれば)おぼろげに似ている。「音楽好き」でも共通していて、小嶋君は歌がとても上手かつ、素晴らしいテノールボイスで、学校のテノール代表に選ばれる程だった。マッチョな感じも何となく似ている。良い声を出すには体格が必要なのだ。

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神主さんは「警蹕-ケイヒツ-」といって「オぉぉぉぉぉ」と神聖な声を発する。「神様が通るぞ!」とばかりに。お伊勢さんの式年遷宮も「カケぇぇぇコぉぉぉぉぉぉ」と鶏鳴三声(けいめいさんせい)から始まります。小嶋君の素晴らしい歌声は神職のご先祖から受け継がれた警蹕由来だったと、番組を見て妙に納得した。ということは小島よしおさんの「そんなの関係ねぇ!」も実はご先祖の警蹕由来だったのかと。天と地を結ぶ神職の言霊と、琉球音感の高次元の結晶が「そんなの関係ねぇ!」の、大本(おおもと)にあるのかもしれない。そうとでも考えなければあれだけ多くの子供たちから大歓声が沸き上がり、心を勇気づける理由が説明できない。明らかに言霊が出現している。(※個人の感想です)


小嶋君、元気でやっているのだろうか。合唱のメンバーで、河口( 混声合唱組曲『筑後川』)また歌おうな!

日本はビッグプロジェクトが大の苦手

 

みなさん、お元気ですか?出張車検.comの松山です。本記事は、「学校の成績を良くする方法は?」https://www.rescue-119.jp/news/archives/1285 こちらの記事のスピンオフとなっています。

本記事のソースは全て個人の感想ですが、閲覧注意となります。私自身、書いていて日本がなぜ国民一人あたりGDPが東欧・バルト3国よりも貧乏な国になりつつあるのか、突きつけられる思いがしました。スコットランドが滅びて、結果として外国(イングランド王国)に併合されてしまったダリエン計画を何度も何度も繰り返している印象です。

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さて日本は半導体シェア売上高が世界70%→6%に転落するまであっという間でした。残念ながら半導体特有の現象ということではなく、日本はビッグプロジェクトというものを大の苦手としています。結論から先に申し上げます。巨大プロジェクト=戦争です。日本がビッグプロジェクトが苦手ということは、日本が戦争に弱いということに尽きます。以下①~⑯を個別検討します。


世界最強、帝国陸海軍

①第二次大戦最初の半年間、われらが日本軍は鬼神のような強さでした。あの強さでなぜ大戦に負けるのかわからない強さです。空の神兵によるパレンバン油田制圧の一つだけでも、いきなり戦争目的達成。制圧後は三菱石油の玉置氏の指揮により一同火の玉となって復旧。日本の年間産油量を上回る470万kl/年を確保。これは日本の悲願だった油の問題が解決された瞬間で、空挺団指揮官は天皇陛下拝謁の栄誉を賜りました。パレンバン油田は終戦まで連合軍の空襲によく耐え、稼働率50%を保持し続けました。

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太平洋、インド洋に敵なし

さらには帝国陸軍銀輪部隊によるマレー攻略シンガポール陥落、香港陥落、バターン・コレヒドール攻略。シンガポール陥落は大英帝国の終焉を象徴する戦いでした。英国内では、いまだにシンガポールの戦いの議論が尽きないそうです。しかし日本としては「自分から日英同盟を破棄しておいて、ワシントン海軍軍縮条約で米5:英5:日3:仏1.67:伊1.67を押し付けておいて、こうなることは当然でしょう?」と言いたいところです。日英同盟は太平洋・インド洋における英国の安全保障を担保する同盟でもあったというのに…。日英同盟の破棄は大英「帝国」を自ら捨てる事だと気が付かなかったのでしょうか?同盟破棄と意味不明の艦隊比率を押し付ける前に、日本という国を裏切ったらどうなるのか、よく考えたのでしょうか?

21世紀の今見ても首をかしげたくなる5:5:3:1.67:1.67の艦隊比を押し付けられたはずの帝国海軍も無双します。スラバヤ沖海戦、バタビア沖海戦、マレー沖海戦比島航空撃滅戦では、往復1,660Kmの超長距離アウトレンジ攻撃に成功。海軍搭乗員たちの奮励努力は空母数隻を創出したに等しい戦績でした。努力だけで空母数隻を創出って日本の下士官は、もはや鬼神です。鬼神のような~ではなく、鬼神そのものです。その強さと共に、海軍下士官以下の米英に対する強烈な怒りを感じます。昭和天皇独白録によれば、戦争なかりせば内乱になったといいます。この怒りが内側に向かえば、内乱は避けられなかったと解します。陛下も憂慮し、苦悩されたのです。

それにしても、日本人は食い物の恨み以外では、絶対に怒らないというのに、米5:英5:日3:仏1.67:伊1.67の艦隊比で日本人があれだけ怒ったということは、餅の取り分にも似た、ほぼほぼ食い物の恨みだったと解します。

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帝国海軍の無双続きます。セイロン島沖海戦では命中率87%江草急降下爆撃隊…どの戦いも下士官以下が鬼神そのものだったのです。真珠湾攻撃水雷攻撃技術においても、地上で見ていた敵米軍パイロットに「上手い!」と感嘆されています。電子制御などない時代です。すべては人の手による操縦でした。(それまで、日本人パイロットなんて大したことないだろうとタカをくくられていました)
珊瑚海海戦攻撃的MVP高橋赫一少佐は第一航空戦隊司令官として、空母「翔鶴」「瑞鶴」の航空部隊精鋭を率い、米空母レキシントンを撃沈、ヨークタウンを大破せしめ戦術的に勝利しました。もう一人の珊瑚海海戦守備的MVP岩本徹三中尉は頭脳的位置取りで味方空母を護りきることに成功しました。戦術面として現場は凄いのです。鬼神です。下士官以下の戦術レベルでは300%の結果を出すことができたのです。

日米で、果たして強いのはどちらか?ボクシングのような「階級制度」を設け、技術やスピード、戦術面など条件面を互角にして純粋な実力勝負で戦った場合、強いのは日本の方と証明されたのが珊瑚海海戦でした。下士官以下の力量の差、職人技の差がどうしても出てくるのです。

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日露戦争では「あの支隊のあの神業がなければ今頃は…」の連続でロシアに勝利しました。記事容量の関係上、ここでは象徴的な3名に限り記述します。
黒木為楨~野戦指揮官としての戊辰戦争以来の経験を生かした優れた采配を見せる。日露開戦直後の日本軍の快進撃は黒木の手腕によるところが大きい。
立見尚文~最高齢の61歳による前代未聞の師団まるごと夜襲。黒溝台の戦い勝利。立見の故郷である青森の弘前であっては、帰還した兵士たちによって「あの人がいたから勝てた」と多く語られて、永く軍神として慕われました。
八代六郎装甲巡洋艦浅間艦長。日露戦争初戦の仁川(じんせん)沖海戦で完全勝利。有色人種が発射した、歴史的記念すべき対欧米列強最初の巨砲命中弾は八代大佐の装甲巡洋艦浅間40口径20.3センチ連装砲によるもの。歴史的にやられたい放題だった有色人種〜南米では天然痘毛布に、オセアニアでは人間狩り、アフリカでは奴隷貿易、アジアでは…皆さまご存知の通りです〜そんなコーカソイドたちに、八代さんは、500年間積もり積もった全世界の有色人種たちの存念を、どでかい一発でドカーンと殴り返してやったのです。当時欧米列強はまさか「マカーキ」が?と狼狽し、それ以外は全世界拍手喝采です。仁川沖海戦に対する海外の反応は、主に日本の完全勝利と、ロシアの敗北に対する驚きと賞賛でした。特に、欧州列強の海軍を破った日本海軍の能力は、世界に衝撃を与え、日本の国際的な地位を高めることになりました。即ちこれは暴落寸前だった海外向け日本公債も売れる素地ができあがったことを意味し、2か月後の黒木将軍による鴨緑江渡河作戦勝利で日本公債は暴騰します。
男爵八代六郎元海軍大臣の旧姓旧名は松山六郎。記事主楽田松山一族のご先祖様。八代大将の生家は記事主の父親の実家です。親戚の家が史跡レベルと知ったのは、かなり後になってのことでした。八代さんのご先祖様、松山一族は楠木正成(大楠公)と共に千早城の戦いに参加しています。正慶乱離志『楠木合戦注文』によれば、天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、四条少将以下、楠木一族、(中略)、判官代松山ならびに子息等、(後略)…とあります。天王寺の戦い千早城の戦いは「数百年間無敵を誇った強大な相手に最初の一撃くらわせ、味方は最終勝利する」という点で、仁川沖海戦と共通しています。

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閑話休題。そんな明治の日本が昭和に戻ってきたかのような下士官以下の驚異的な強さもあっての連戦連勝でした。たったの半年間で太平洋とインド洋からはアングロサクソン艦隊がほぼ一掃される状況になっていました。

IMG_3731.jpegこの状況、どこかで見たことがあると思ったら、あれですね。新世紀エヴァンゲリオン 第拾参話「使徒、侵入」。自爆装置の起動が残り数秒まで迫ったところで赤木リツコの作業が終わり、残り時間が2秒から1秒の間となったところで、第11使徒イロウルにハッキングされつつあったカスパー、バルタザール、メルキオールが元の状態に、ぶわーっと戻って、自律自爆の提訴が否決されるあの場面です。アジア・アフリカで殆どただ一か国植民地支配されなかった日本の奮闘で、太平洋とインド洋をハッキングしていたアングロサクソンの艦隊がぶわーっと消え去りました。当時の日本はエヴァでいうところの自滅促進プログラムの役割を果たしたのです。

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なお日本の敗戦後も、一部の日本兵は現地に残り、軍事顧問となり、現地人に軍事訓練し、旧日本軍の武器を横流しで供与することにより、対アングロサクソン自滅促進プログラムを作動させ続けることになります。

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下士官以下は世界一優秀。指導者層は世界一無能

日本の下士官以下の強さを全世界に見せつける半年間だったと思いますが、彼らの此れ程の強さを見るにつけ、50分遅れで宣戦布告した外務省ほか、指導者層の腰が抜けるほど思考硬直の根源、あれは一体何なのか検討します。映画にもよく出てくる真珠湾攻撃まであと僅かの場面です。本国から送られてきた宣戦布告文章の暗号解読とタイプが間に合いません。そこで、なんと彼らは、ハル長官に電話をかけて、独断で「面会時間を延ばしてほしい」としました。呆れ果ててアゴが外れます。結局、野村吉三郎大使と来栖三郎特命全権大使が最後通告をハル長官に手渡したのは1時間20分遅れの2時20分で、真珠湾攻撃後すでに50分が経過!もう、抜けた腰も、外れたアゴも元に戻りません。ハーグ開戦条約の条文を読む限り、タイプした完全無欠な文章でなくとも、宣戦布告というものは基本文章に口頭で補完すればそれで済むのです。(欧米法:口頭証拠排除原則の例外)その時間も無いと判断すれば、手書きでも有効です。手書きの時間すら無ければ口頭による通達でいいのです。全権大使による意思表示は、法・条約として100%有効なのです。

何故100%と断言できるのでしょうか。ミズーリ号艦上の降伏文書調印を思い出してください。カナダ代表が署名の箇所を誤ったため、以後の代表は署名欄を一段ずつずらして署名し、調印式終了後に訂正されています。各国代表がパーティに行ってしまったため、代筆の訂正です。国際基準ではこんなテキトーなのでも降伏文章は成立なのです。開戦50分遅れてまでタイプで清書した日本って一体何だったのでしょうか…。1984ロス五輪でただ一カ国だけ軍隊式入場行進して世界中に大笑いされた黒歴史も思い出します。日本選手団は事前に行進の練習をしたそうです。(小学校の運動会か!)これら今も残り続ける無意味な風習限られたリソースを明後日の方向に無駄に消費してしまう)は、日本衰退の理由と同根です。すなわち、国際基準たる「ヒトはテキトーで良し」を見ていると、日本はあきらかに「弱い自分を隠そう、隠そう、覆い隠してしまおう」としています。この「強がり」が隠ぺい体質を生む根本的原因なのでしょう。弱い自分を認めないということは、最悪の事態想定や準備(ダメージコントロール)の欠如につながり、50分遅れの宣戦布告、ミッドウェイの敗北、原発メルトダウンへという日本3大国辱へと連鎖し、そして令和の現在、街の心療内科の予約が2か月先まで満杯の原因は日本社会が組織人に要求する隠蔽体質と記事主は解します。花粉症よりも深刻な国民病かもしれません。

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閑話休題。両大使ばかりではなく、開戦時間ぎりぎりまで「覚書」手交を引き延ばそうとした軍部に屈して発信時間を遅らせた外務省幹部こそ、その責任を問われるべきだとの指弾もあります。組織に累が及ぶことを避けるために「責任をすべて出先に追わせる構図」を作ったと。要するに軍上層と外務省の足の引っ張り合いです。これでは日本軍下士官以下がいくら世界一強くとも、未来永劫勝てる道理がありません。この足の引っ張り合いの構造は、過去からこんにちまで至る所で顔を出してきます。

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当時の大使館員は戦後、出世しています。上記の通り外務省全体の責任隠蔽と組織防衛のためです。日本の組織は功労者をはじき出し、失敗者だけが出世をするシステム構造です。この組織構造により、日本の指導者層は、下士官以下個人がいくら有能であろうと、組織全体では1年中365日、常に内外の足の引っ張り合いに忙殺され、隠蔽体質のため、世界一無能にならざるを得ないのです。

お役所の掟と御法度「規定外ノ仕事スルベカラズ」

仮に野村吉三郎大使か、来栖三郎特命全権大使が機転を利かし、口頭で真珠湾攻撃の前に、宣戦布告を行い日本に貢献したとします。そのような機転の利く人物は組織として要注意で目を付けられ、排除の対象になります。おそらくは戦後の出世もなかったでしょう。野村吉三郎大使か、来栖三郎特命全権大使も日本という組織で機転を利かせる恐ろしさを骨身にしみて知っていますから保身したと思われます。決められたこと以外をやり、余計な機転を利かせ生贄にされて真綿で首を絞めるように組織に虐め殺され生贄にされ3代に渡って名誉も回復されない恐ろしさを知っているのです。

一般的に日本人はモノマネ・改良が得意で創造性・イノベーションに乏しいと言われますが、こと組織における対個人への排除の虐め・他人の足を引っ張る技法・技術に関しては違います。負の方向に対しては、抜群の創造性とイノベーションを発揮することは宮本 政於氏の「お役所の掟」「お役所のご法度」でも言及されている通りです。これは限られたリソースで縄文時代1万年を維持するのに培われた日本人の生きる知恵でもあるのですが…。

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典型的な日本型組織の、財団法人日本相撲協会で例えると、千代の山出羽海一門破門の余波で、弟子の北の富士、孫弟子の千代の富士に至るまで、九重の名跡50年間冷遇され続け、近年では貴乃花と貴乃花グループ、そして朝青龍日馬富士白鵬のモンゴルの3横綱が放逐された、アレのようなものです。日本の組織の執念たるや凄まじく、本人だけに留まらず、この通り三族族滅まで続く恐ろしさなのです。日本型システムに抗うことは優勝回数40回を超える大横綱でも不可能なのです。ということで私としては、両大使個人に帰責性があるわけではないと考えます。誰が大使になったところで結果は変わらないでしょう。個々人のパーソナルな問題ではなく1万数千年続く()日本独自の組織的特性と解します。

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ハル国務長官(中央)と共にホワイトハウスに向う野村大使(左)と来栖大使(右)
(1941年11月17日)Wikimedia Commons

繰り返される戦術的勝利と、戦略的敗北

閑話休題。そして勝利のたびに歴戦の勇士たちは連合国によって着実に削られていくことになります。当時の戦闘機パイロットは短期決戦が前提の少数精鋭主義です。いくら鬼神のような強さを誇っても、1回の戦闘で死傷者1/10、次も1/10、その次も1/10、また次も…と戦闘を重ねるたびに、補充の利かない真珠湾以来の精鋭たちが長期消耗戦で散っていきました。そんな「ピュロスの勝利」に、商船の壊滅(損耗率は神風特攻隊以上)に加え、珊瑚海海戦戦略的敗北に、ミッドウェー海戦空母4隻撃沈以来、現在に至るまで日本は敗北に敗北を重ね、その敗北のたびに天文学的な国富が失われるようになります。

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急降下爆撃を受け炎上する空母飛竜

驚くべきことに、日本の空母乗組員は敵攻撃によるダメージコントロール訓練を受けていなかったといいます。それは何故かといいますと、先ほど述べた通りで、日本はあきらかに「弱い自分を隠そう、隠そう、覆い隠してしまおう」とする病理があります。この「無意味な強がり」が隠ぺい体質を生み、この場合は絶対必要たるダメージコントロールを見て見ぬふりし、空母全滅という亡国の結果になってしまいました。これは後年の原発事故と全く同じ構造です。日本の原子力発電には事故は絶対にあり得ないという前提(弱い自分を認めない病理)と「空気」に支配された日本の原発は電源喪失し、メルトダウンと相成りました。(振り返って日本海海戦MVPは言うまでもなく東郷元帥と、そして、バルチック艦隊から集中砲火を浴びたにもかかわらず、見事なダメージコントロールを成し遂げた、装甲巡洋艦浅間乗組員全員ではなかったかと記事主は解しています。しかし現実には浅間の物語は、派手なバルチック艦隊撃滅の陰に隠れて一顧だにされていません。戦前の修身の教科書にも載ることはありませんでした。浅間の八代六郎艦長だけは、ただ一人、乗組員遺族の面倒を私財を擲ち最後まで見続けたといいます)


閑話休題。先の大戦を改めて振り返ると、対オランダ戦争では完全勝利、対英戦争は負けたとはいえません。プリンスオブウェールズ・レパルス撃沈、シンガポール陥落、セイロン沖海戦勝利。結果として英国はアジアにおけるほぼ全ての植民地を失いました。日本の判定勝ちです。対ソ連は樋口季一郎中将池田末男大佐指揮する士魂戦車隊の占守島における戦いで勝利。占守島上陸後、ゴブリンと化したソ連兵たちは、血眼になって日本人女性を探し回りましたが、全員無事本土に脱出したあとでした。満蒙では満州でこそ指導者層が敵前逃亡で戦わずして不戦敗(肩が外れて記述する気も起きません)ですが、上村幹男中将が戦い抜いてくれたモンゴルではソ連軍に負けていません。ジャライノール地区の居留民は鉄道で避難することができました。満州の人々は着の身着のままで帰ってきたが、在モンゴル開拓団の日本人たちは家財道具と共に帰ってきたと言われたものです。戦術的には判定勝ち2・不戦敗1とします。満州のソ連軍は補給がカツカツだったようです。兵站では日本が圧倒的に有利です。モンゴルの日本軍のようにやれば勝てたはずです。

しかし大戦末期というのに、陸軍の強さには目を見張ります。大陸打通作戦に、沖縄戦の反射面陣地、硫黄島の戦いでは死傷者は米軍が上回りました。加えて士魂戦車​隊の勝利に、モンゴルにおける対ソ戦大善戦…

対英戦で勝てたのは英国の日英同盟破棄が大きいと解しています。英国の信義則違反です。逆に対米戦は宣戦布告の瑕疵によって騙し討ちになりました。日本の信義則違反です。大英帝国といえども信義則に違反すると植民地を全て失い、日本は信義則違反を起点として同じく全植民地を失い国土は焦土と化しました。信義則違反だけは絶対にやってはならない…という教訓は私自身にもよく言って聞かせてやりたいところです。何もかも失うぞ!と。


壮絶!自分が損をしてでも、足の引っ張り合いをする日本人

②以上が戦前、ここからは戦後になります。戦後もビッグプロジェクトの失敗が続くことになります。高度成長期のその裏側で日本衰退の種はバラ撒かれていました。まずは日本のハブ空港が外国にある現実です。

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何だかんだと「民は生かさず殺さずの江戸時代の老中の発想」「時代錯誤の空港行政」「伝統芸能の、たとえ自分が損をしてでも日本人同士で足の引っ張り合い」をしている間に、日本のハブ空港の機能は外国の仁川(ジンセン)に攫われる事態に。たとえば北欧旅行をするなら仁川(じんせん)空港経由で、格安便も利用すれば最大で10万円は安いようです。
③原発のメルトダウンによって、向こう100年間で100兆円、200兆円ともいわれる被害総額に、ただでさえ狭小な国土のうち一部が事実上失われたも同然の状態です。
MRJは7回の延期の後頓挫、(失敗原因究明の記事や番組、特集が多く組まれましたが、要約すると、技術継承の断絶した怒りと絶望の小宇宙内部で足の引っ張り合いに終始していたに尽きます。日本の組織は巨大になればなるほど、お互いの欠点を咎め合い、足の引っ張り合いになってしまいます。
追記。令和7年の国会でも発現しました。岡田氏の国会答弁「台湾危機・存立危機」は要するに「日本の国益・安全保障を大きく損ねてでも、高市総理の足を引っ張る」目的です。自分が損をしてでもする足の引っ張り合いは縄文時代の昔から1万年つづく遺伝子に刻まれた、日本という限られたリソースの中で生きていくためのもので、岡田さん自身でも制御できないのでしょう。
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⑤開会式がトラウマ級かつ、人件費の97%等中抜きで予算が7340億円から3兆6800億円に膨張した2020東京五輪に、
(※パリ五輪を見て追記。選手への食・住・移動、個々のスタッフの瑕疵のない基礎的運営力、当たり前のこと(上等な普通)を提供する等、下士官以下の能力は抜群と再認識。上層部が無能でも下士官以下の有能さで何とかする日本※
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⑥韓国高速鉄道入札も新幹線方式はフランス方式に敗北。韓国の他に、台湾、中国、アメリカ、ブ ラジル、インド、ベトナム、マレーシア、イギリス等にもインフラ輸出を試みましたが、成功したのは台湾のみ、それもシステムは欧州併用という限定付きで、
⑦オーストラリア海軍への、そうりゅう型潜水艦受注は情報戦の段階で既に敗北→結果も勿論フランスに敗北。→後日談。そのフランスもUKUSA協定(ファイブ・アイズ)に敗北。
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インドネシア高速鉄道入札は一帯一路に敗北、※現地を地質調査・測量し、精密な計画をたてた下士官以下は非常に優秀だったことを追記しておきます。
ベトナム高速鉄道もまた、鉄道路線の地形調査や設計のノウハウだけ盗まれて、一帯一路に敗北しようとしています。
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https://openjicareport.jica.go.jp/pdf/12235354.pdf

⑩地上波デジタル放送ISDB-T方式規格の敗北→唯一シェア獲得の南米もブラジルに足元を見られ→ISDB-Tb方式に乗っ取られ敗北、
⑪アフガニスタン邦人撤退作戦は自衛隊機を4機派遣して、500人の予定が救出できたのは0人。唯一、共同通信社の女性記者、安井浩美氏については、ジャーナリスト用にカタールがチャーターしたバスで自力で空港まで来れたというだけで、救出ではなく回収です。日本大使は現地スタッフ500人を見捨てて真っ先に脱出。オランダは1900人脱出するも一部が取り残され外相が責任を取って辞任。日本は誰も責任を取らず処分もされず世界中が唖然としました。つまり日本の国際的信用も、現地協力者と一緒に、カブールに捨ててしまったのです。日本の信用力は地に落ちましたが、おそらく外務省の関係者は何ら責任を問われることなく出世していくでしょう。それが組織防衛のためですから。

仮に大使館員の誰かが機転を利かせ、現地スタッフ500人を見事に脱出させたとします。その大使館員はもう出世の見込みはなくなる…どころか日本型組織独特の三族族滅システム発動の憂き目に遭うでしょう。官邸・外務省組織全体として憲法違反を問われかねず、大問題に発展したこと必定です。故に真珠湾攻撃のときと同じく、アフガン総領事以下、個人に帰責性があるわけではないと考えます。やはり誰が総領事になったところで結果は変わらないでしょう。個々人のパーソナルな問題ではなく100年以上前から変わらない組織としての在り方の問題と解します。

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ただし、組織がどうとか個人があれとか、そんな日本国内における諸事情なんて外国人は知ったことではないのも事実です。これらは日本円の信用力が、世界中の投資家に見限られる最後の1滴となりました。世界は思ったことでしょう。なんという腰抜けの国だ…。これがカミカゼで最後の最後まで戦ったあの日本の今の姿か!コップからは水は溢れ1ドルは中長期的に200円に向かい、国富と庶民の貯金も半減するトドメの一撃になってしまいました。

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⑫リニアモーターカーも「SUZUKIの鈴木修会長ー川勝静岡県知事」を傀儡にした大陸の関与等で遅延→海外パッケージ型輸出敗北確実。しかしそんな外国の関与以前に、何処の誰が、現地の協力者500人全員を見捨てる国、誰も責任を取らない国のリニアを買ってくれるというのでしょうか。何処の投資家がそんな国の通貨を信用してくれるというのでしょうか?

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ついに憲法まで付喪神化して、日本人の足を引っ張り始めた!

※⑪について、80年近く放置されたままの憲法が、意思を持ち始めた感があります。
日本国憲法日本人同士足の引っ張り合いで楽しそうだな。よっしゃ!ワシも参加しよ!日本人の足引っ張ったろ!
このまま憲法に足を引っ張られたままで台湾有事の邦人救出どうするのでしょう。このままではアフガニスタンと同じく、憲法上の制約で見捨てられる運命にあります。一体何のための憲法でしょうか。憲法を護って国滅びる、玉よりも飛車を可愛がる…憲法改正もせず、ぐず愚図しているしているうちに憲法上の制約でカブールでは国際的信用を失い、円の価値も失墜。⑫リニア用のインフラ輸出も頓挫と、ボディブローのように効いています。
自国の領土も満足に護ることができていません。尖閣諸島→東シナ海ガス田採掘→沖ノ鳥島に観測ブイ設置→長崎県男女群島沖の領海上空侵犯→測量艦が鹿児島県口永良部島近海領海侵入→やがては沖縄→日本本土と、じわじわ国土を失い、亡国の流れになっています。内蒙古・満州・チベット・東トルキスタン・香港・台湾は人ごとではありません。(しかし、大陸政権の、日本を真綿で首をじわじわ絞め、ある日突然侵略してしまう手法、敵ながら巨大プロジェクトが得意と言わざるを得ません)

⑬対露北方領土交渉は、1992年の唯一無二の絶好の機会を宮澤喜一内閣が逃したあとは、足元を見られ続けて結果、長い時間と莫大な経済協力金を失っただけでした。1991年、旧ソ連も崩壊していましたが日本もバブルが崩壊していました。
⑭日本の基幹ロケット「H3」について、世界のロケット市場を熟知する関係者は「先頭を走る米国との打ち上げ競争は100対1の劣勢。H3は惨敗必至」と酷評します。日本の宇宙機器産業に携わっている従業員数は1万人を下回る規模で、日本の自動車産業就業人口が534万人ということと比較すると著しく少なく、日本の「宇宙村」の顔ぶれも50年間変わっていないといいます。もちろん需要は官需が9割。このリソースでいったいどうやって…
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令和6年10月14日、追記。
「上記⑭の100対1の劣勢。H3は惨敗必至」ですが、訂正が必要になる報道がありました。100対1どころか、もはや勝負になりません。再利用方式なら発射に必要なコストは1/10以下にカットされます。
以下、yahooニュースより引用します。
スペースX(SpaceX)の「スターシップロケット」は2024年10月13日、5回目の試験飛行で世界初の成功を収め、イーロン・マスク(Elon Musk)が率いる打ち上げシステムが宇宙飛行に革命をもたらすという可能性を示した。
この打ち上げシステムは高さ71メートルのスーパーヘビーブースターの上にスターシップロケットを搭載したもので、全長は121メートルにもなり、自由の女神像よりも高い。
打ち上げ後、軌道に向かうスターシップから切り離されたブースターは、地球に戻り始めた。テキサスにある発射塔に向かって降下すると、巨大な機械式の「箸」のようなアームによって回収された。巨大なブースターが、崩壊することなく地球に帰還することができたのだ。(引用了)

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今を去る2021年9月30日、本田技術研究所および本田技研工業は宇宙事業への参入を明らかにし、「再使用型小型ロケット」を目標に掲げましたが、早くもイーロンマスクに先に実用化されてしまいました。しかし、私個人的にHONDAロケットに一縷の望みを託します。本田宗一郎氏の生前の夢を実現させたHONDAジェットのように、ホンダの親父さんの宇宙への夢が実現することを願って止みません。2029年の史上2番目の再使用型小型ロケットHONDAロケット打ち上げのニュースを待ちます。

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私は自動車の仕事をしています。HONDAの関係者から興味深い話を伺ったことがあります。「松山さん、クルマが売れる、売れないってのはね、心霊の世界なんだよ」「人知を超えたところにあるんだよね」私はこの話をいまだに理解できずにいますが、HONDAの創業者たる本田宗一郎もまた人知を超えた存在であることは確かです。創業者の魂がこの世に残り続けて、夢を見続け、後継者たちが夢を叶え続ける。会社創業者にとってこれほどの幸せはありません。

令和7年6月17日、追記。
本田技術研究所は、開発中の小型再使用ロケットの実験機が高度約300メートルまでの飛行・着陸試験に成功したと発表しました。試験は北海道の大樹町で行われ、射点からの離陸と再利用ロケットのキー技術である降下しながらの速度・位置の制御と安全な着陸を実証する初の試み。今後ホンダは実証実験機を発展させ、本格的なエンジン開発を経て小型衛星打ち上げロケットの設計へと進むそうです。2029年の史上2番目の再使用型小型ロケットHONDAロケット打ち上げの吉報を引き続き待ちます。

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世界標準化の前に敗れ去る、日本のガラパゴス規格

⑮winny金子氏の逮捕を思い返せば「P2Pは違法だ」というイメージが広がり、日本ではP2Pシステムの開発が止まり、検索サーバにキャッシュを置くのも違法だといわれ、検索エンジンの開発も止まってしまいました。その間に世界では、P2P技術を利用したIP電話、スカイプが普及し、今なおMicrosoft Team等にP2P技術が使われていますが、金子氏が逮捕されてから無罪が確定するまでの7年間に、日本のP2P技術は壊滅してしまいました。「王より飛車を大事にした挙句の果て」の、取り返しのつかない損失でした。P2Pシステムの失敗の源流を辿れば、ルンバやiPod等で後塵を拝し、取り返しのつかない事態となった理由も同根とわかります。特にiPodとSONYの「石鹸箱」との対比は当時衝撃的で今でも悪夢に魘されます。日本凋落の始まりを象徴する対比でした。日本のガラパゴスは性能面で劣るわけではありませんが、この前後から欧米の世界標準化の前に次から次へと敗れ去ることになります。
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余談続きます。なぜ欧米は世界標準化を得意とするのでしょうか?例えば西洋のクラシック音楽です。なぜ「西洋音楽」だけがスタンダードになったのでしょうか? その要因はいろいろあると思いますが、なんといっても「楽譜」と「記譜法」の発明が大きいのです。記事主が高校音楽で移調にさんざん苦しめられたのは苦い記憶なのですが…。

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閑話休題。日本の将来に必要なのは「楽譜」「記譜法」の発明に相当するソフトウェアですが、日本が縄文時代以来の究極の血族社会・村社会・排他的社会である以上、非常にハードルが高いと言わざるを得ません。「インテル、入ってる」のCMも当初は関係者ですら「?」で理解することさえ困難でした。西洋以外にも「楽譜」「記譜法」はもちろん存在しますが、どうしても地縁、血縁等に縛られて門外不出でガラパゴスなものとなってしまいます。

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西洋の標準化システムの元を辿ると、古代ローマのアウグストゥス帝に行きつくように思います。従来あるものをシステム化・普遍化し、ブリタニアからメソポタミアまで広がる多民族国家ローマ帝国全体に普及させるのは彼の得意とするところでした。

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加えてキリスト教です。教義として、家族や親戚といった地縁・血縁による結びつきをいったんは拒否するそうです。とはいえキリスト教が地縁や血縁関係を否定し、無視する…というわけではないそうですが、このあたりの機微は宗教学者ではないド素人なので、まったくわかりませんが、西欧の人々が、ガラパゴス化の正反対の価値観を持つ人たちであることは何となく理解できます。要するに彼らのコミュニティはあらゆる楽器が収斂される西洋楽譜的であり、あらゆるハード、ソフト、周辺機器が収斂されるMS-DOSwindowsiOS、android、bluetooth,IEEE 802.11の「ようなもの」なのです。対人関係からして既に、オペーションシステム・その他のように、広く繋がっているのです。例えば非構造化データを保存するcloudストレージ・パブリックなAWSクラウドなんて、日本人単体では1,000年経っても無理だったでしょう。伝統芸能の足の引っ張り合いで上層部に潰されるからです。

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ルンバ型ロボットも「仏壇のローソク倒したらどうするんだ!」と松下電器上層部に潰されたという都市伝説があります。(そんな事を言っていたら、ガスも電気もダメ、フネもクルマも飛行機もダメ、刃物もダメ。何もかも危険性で駄目、人類自体も地球環境にとって駄目ということになる)閑話休題。歴史的、宗教的にも普遍化・標準化が得意な欧米システムに、日本はどのように立ち回ればいいのでしょうか。残念ながら私にはわかりません。次の若い世代を応援することしかできません。

IMG_3693.jpeg1995年11月23日 秋葉原


東芝は2015年に会計不正が発覚し、歴代3社長が辞任。2016年末に米国原発事業で巨額損失が露見し、債務超過に転落、事実上かつての日本を代表する巨大企業「東芝」は消滅しました。東芝関連の報道ピーク時は、まるで悪夢を見ているようでした。社員一同がコツコツと懸命に稼いだカネを、経営陣が虚栄心を発揮した挙句、血と汗と涙の結晶の数兆円と、企業の命運を一緒にドブに捨てたのです。もういい加減巨大プロジェクト自体止めないといけません。日本という国は地道に細かくコツコツやるしかないのです。

蛇足続きます。冒頭で引用したスコットランドのダリエン計画と今の日本がそっくりすぎます。かつて読んだ『とびきり哀しいスコットランド史』〜哀しすぎて笑える〜(ちくま文庫)。この本を要約すれば、スコットランドという国は、若い王が死に、幼い王の摂政政治で乱世となり、貴族の争いとフランスの接触が繰り返されるというもの。お互いに足の引っ張り合いをしているだけで、平和な治世の期間は極めて少ない。やがて国であることをやめてしまった…となります。

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日本も第二次大戦の敗戦から、原発メルトダウン、MRJ敗戦など、対外的巨大プロジェクトに成功したという話があまり思い浮かびません。日本人同士、足の引っ張り合いをしているうちに、円の価値(国富)も半減しようとしている現状です。イングランドに併合されたスコットランドの哀しすぎて笑える状況は、けっして人ごとでは無いと思います。事実、熊本県は台湾の半導体メーカー(熊本に出向している一般社員TSMC台湾人の年収2450万円)に吸収合併されているような錯覚すら感じるこの頃です。中長期的に円が200円になれば熊本に住む台湾人社員の年収は円換算3,000万を超え、日本人との給与差はますます広がるのでしょう。


ここまで実例をあげてあげてきましたが、みなさん疑問に思わないでしょうか。巨大プロジェクトが苦手な日本が、なぜここまで巨大プロジェクトに執着して、失敗するとわかりきっているのに、どうして何度もやりたがるのでしょうか? 上の方でも述べたように日本は「弱い自分を隠そう、隠そう」としています。この「強がり」がビッグプロジェクトへの執着を生むと思われますが、もう一つ何か心理的、根本的に何かあるような…私は心理学者ではないのでよくわかりませんが、ふと似たようなものを見つけることができました。

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クレヨンしんちゃんが何でも自分でやりたがる、あの心理ではないでしょうか? マ元帥の言っていた「日本人はteenagerに至らない子ども」という指摘は言い得て妙です。まさか日本独特の「弱い自分を隠したい」「強がり」って、精神的に成長しきれていないアレがソレで…
いうまでもありませんが、記事主は日本のビッグプロジェクト自体を無条件に否定しているわけではありません。国家国民や、技術者の誇りにも関わる問題と解するからです。(HONDAジェット、HONDAロケットとは真逆の)弱い自分、精神的な未熟さを覆い隠す目的、希望的観測だけの巨大プロジェクトは危険極まりなく、支持することはできません。

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もう一点疑問です。近代の明治維新から富国強兵、日清・日露までの巨大プロジェクトは何故成功したのか?それは薩摩の外交力に頼ったところが大きいのです。薩英戦争を思い起こせば、鹿児島『』をとして、5000倍の大英『帝国』の敵の大将を討ち取って勝ち、結果、薩英は友になり、挙げ句の果てに日英同盟にもっていくとか尋常ではありません。国力が5000倍の敵に勝つとか、人類の歴史上、後にも先にも薩摩藩だけです。次点で1250倍、100万の鎌倉軍を800人で打ち破った千早城の大楠公でしょうか。とにかく薩摩の戦争の強さには舌を巻きます。日英同盟は21世紀の現在、復活の兆しすらあります。(英国さん、新・日英同盟の裏切りは、もう許しませんよ?裏切ったらウィンザー朝と国が滅びますよ。次は日英永久同盟に)すべては160年前の薩英戦争勝利の余波です。日本はあの地域だけ特殊なのです。薩摩の元勲・軍人、薩摩出身の外交官(岩下方平、寺島宗則、鮫島尚信、森有礼、吉田清成…)が死に絶えた後に、第二次大戦に突入した時点でそもそも無理がありました。薩摩の小泉元総理の郵政政局もしかり、薩摩の人が強権発動する場合、例外1として巨大プロジェクトは成功するようです。

例外2食の安全保障です。こと食い物に関しては日本は無類の強さを発揮します。2010年ワシントン条約締約国会議でクロマグロ漁の全面禁輸の危機では、掟破りの多数派工作に加えて、ダメ押しにリビアの故カダフィ大佐まで動員してマグロ禁漁から日本を救いました。西欧諸国は日本はマグロでここまでやるのか!?と、その執念にびっくり仰天しました。日本の気合勝ちです。危うくもマグロがクジラの二の舞になる既の所での回避でした。今日、日本の食卓で普通にマグロが食べることができ、すし屋で大将に「トロ!」と言えるのは、故カダフィ大佐のお陰でもあるのです。しかし日本人の食への執念は、いったい何が由来なのかよくわかりません。今後の研究課題です。

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福島県伊達郡の中村善右衛門の創意工夫、ミッドウェーで2度目の兵器転換命令を30分でやってみせた海軍整備兵たち、小惑星探査機はやぶさの「こんなこともあろうかと」等、個々人(下士官以下)の常軌を逸する優秀さが日本の救いで、巨大プロジェクトが100%近く失敗する現実指導層組織が足の引っ張り合いで機能せず結果日本が戦争に弱いという現実がある以上、これからも個々の力で何とかする以外ありません。地道にコツコツと。

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令和7年8月4日追記。オーストラリアのアルバニージ政権は国家安全保障会議を開催し、三菱重工製の新型FFMを次期汎用フリゲートとして採用する決定を下しました。これはミッドウェイで惨敗以来、日本にとって画期的なことです。

ミッドウェイ敗戦から83年経って、ようやく日本にも生きていく道、食い繋いでいく道が見つかりました。米国製武器換装・互換機の道です。正直言って隙間産業ですが、それでいいのです。(事実上の日英同盟復活も地味に効いています。ファイブアイズとの情報共有・連携もこのまま進めていきましょう)
他の米国製兵器(たとえば原子力潜水艦)運用との連動性も見逃せません。上の方でも指摘した通り、もはやガラパゴスでは世界に通用しません。必要なのは西洋楽譜的な記譜法・標準化であり、あらゆるハード、ソフト、周辺機器が収斂されるMS-DOSwindowsiOS、android、bluetooth,IEEE 802.11のような汎用性なのです。

…しかし以前の日本なら独自規格にこだわって惨敗したはずです。例えばMRJのコックピットも「ボーイングのコックピットを使ったらどうだ?」という現場のパイロットの声を無視して「ガラパゴスなコックピット」を一から作って費用増大したうえに、型式証明取得のハードルもより上がって、結果大コケしています。上層部の過去の成功体験に基づく独自規格への拘りを、若い技術者たちはどうやって封じ込めたのでしょうか?機会があれば是非聞いてみたいところです。


次期汎用フリゲート艦を、私の昭和平成の記憶で例えると、Windowsの昔、MS-DOSの時代、NECPC98の互換機というものがありました。EPSON PC-286というものです。

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それまでのエプソンは自社独自のパソコンビジネスにことごとく失敗に終わっており、やむなく互換機を開発。このときには企業や技術者の誇りにも関わる問題であると社内でも異論や混乱があったといいます。しかしその後、互換機は需要急増に供給が追いつかず品不足が発生するなど予想を上回る状態が続き、週間ダイヤモンド1987年12月5日号の「特集:今年の超ヒット商品番付」で総合第5位、事務機部門では第1位にランク付けされることになりました。


まさか日本がジェネリック路線になるなんて、思いもしなかったのですが、遠くの方に希望の光が見えてきました。

おそらく今回のフリゲート艦契約合意で、儲けはほとんど出ません。厳しい要求がこれでもかと続き、結果的にマイナスになりますが、それでいいのです。かけがえのないプラスが将来に戻ってきます。茨の道がしばらく続きますが、ジェネリックからコツコツとやり直していきましょう。負けて、負けて、負けて、泥にまみれて、プライドを捨てて、弱い自分を認めて、最終勝利しましょう。

しかし一度敗戦国になると立ち直るのに還暦2回分の120年かかりますねえ…。