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NEWS RELEASE 新着情報

2025年11月

天白区 O.Y様 トヨタ ラクティス車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝7時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

豊川市 T.M様 トヨタ ヴィッツ 車検 ありがとうございました。 

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝7時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

日進市 I.S様 三菱 eKワゴン車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝7時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

犬山市 Y.Y様 ダイハツ ムーヴ車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝8時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

名古屋市中区 法人様 トヨタ サクシード車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝9時に御社までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

春日井市 N.M様 トヨタ 86ハチロク 車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝8時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

中村区 法人様 日産 セレナ車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝10時半に御社までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

  • Category:車検
  • Author:shuccho-shaken

名古屋市緑区 T.K様 トヨタ プリウス 車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝8時にご自宅までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

名古屋市緑区 法人様 トヨタ ハイエースバン車検 ありがとうございました。

この度は当社への車検ご依頼ありがとうございます。

ご指定の朝8時半に御社までお引き取りすることができました。

陸運局の検査に加えて、車載コンピュータ(ECU)診断ならびに、

アルコール除菌・手袋等の感染症対策もさせて頂きました。

また次回車検もお待ち申し上げます。本日はありがとうございました。

(新発見)楽田城の遺構「遠見の曲輪」「忍者道の痕跡」

 

みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。

楽田城(愛知県 犬山市)の「遠見の曲輪」「忍者道」(新発見)というのは、私(記事主)が勝手に言っているだけですので、どうかご了承ください。(-人-) 

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戦国時代のお城の周辺には、その巨大さ故に必ず痕跡が残ります。楽田城も例外ではありません。お城から少し離れた街道筋に集落のお天王様がありますが、記事主が見る限り、物見櫓があった遠見の曲輪(くるわ)」にしか見えません。日常の中に埋没して誰も指摘しないので、元地元民の私が記事にした次第です。
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お天王様は地元「勝部・西北野」集落皆様のもの。

織田家・旧尾張領内で街道脇の、しかもお城から独立した戦国時代の曲輪の遺跡というのは、ここ旧楽田村にしか現存しないと思われますが、旧国道建設により東半分は失われ、歩道橋設置により、必要最小限ですが、やや削られています。私が呼ぶところの曲輪は、あくまで地元の大切な「お天王様」です。今後とも発掘調査等はせずに、戦国の痕跡をこのまま地元の方々にお任せして、遠くからそっと見守り続けるのが大前提と記事主は思います。
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曲輪を造るには古墳並みの土量が必要

「農民にとっての価値との価値は同じくらい重要である」という表現は、水害の脅威に常に晒されてきた木曽三川輪中地域特有の文化や歴史的背景から「土一升に金一升(つちいっしょうにきんいっしょう)という言葉が伝わりますが、楽田村はそこまででは無いにしても、村内のいち集落の神社3D化は、あまりにも土の使い方が異次元かつ、非合理的過ぎます。

記事主には、西北野(にしきたの)、勝部(かちべ)の「吉野君」「吉野さん」「石田君」といった先祖代々ここに住む苗字の同級生がたくさんいますが、皆真面目・良妻賢母を絵に描いたような級友ばかりです。現在の職業も銀行員、体育の先生、トヨタ自動車、デンソー、航空機メーカー、親父さんの残した工場を継いだ…など、協調性を大事にする、常識ある人たちです。異次元・非合理な発想は、彼らのご先祖様と対極関係にあるはずです。

したがって織田家による軍事目的の造成と考えるのが自然でしょう。織田家がわざわざ古墳造成並みの労力で曲輪を造った理由ですが、
①軍事拠点としての防御の他に、
②櫓の礎石(裏込め石、築石、栗石)等基礎を固め、
③石垣による柔軟性と重力分散効果、
④かつ適切な排水性も確保し、
⑤地震にも対応できるような、
長期間の安定を担保することにあったと解します。
現在も歩道橋の基礎のひとつが、お天王様に据え付けられていることは、②~⑤の理由により非常に理に適った合理的なものといえます。曲輪は今も昔も遠見の構造物を支える、縁の下の力持ちの役割を立派に果たしているのです。
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近隣集落の寺社(観音堂烏森天神若宮神社)と比較してみます。他は全て2Dです。当たり前ですが、巨大構造物の重量を支える必要も、敵?が寺社を襲撃してくるおそれもないからです。
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楽田城近辺の織田家の軍事遺構に木ノ下城がありますが、こちらは寺社とは違い3D構造となっています。犬山城築城に伴い、木ノ下城は廃城。現在は愛宕神社になっています。
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平城(ひらじろ)は防備が難しい

さて、曲輪の上には、おそらく画像↓のような雰囲気の物見櫓があったと思われます。画像引用:Wikipedia「西尾市の東条城物見櫓」

ただし屋根は藁(かや)葺きで、私が城主なら、火急の折にはに火を付けよ!と厳命します。火柱はお城の天守からも良く見え、全城兵瞬時に相伝わるでしょう。お城のすぐ北の曲輪にもがあったはずです。ヒューマンエラーがあっても、火柱をどちらかが見つけることができれば、生存の確率は高まります。たとえ丑三時であろうと、半鐘を鳴らせば襲来も城内に伝わるはずです。楽田城は「天守「内堀」「外堀」「土塁」「出城」「北の曲輪」「遠見の曲輪」と、7重のセキュリティシステムが施されていたことになります。※「内堀」の一部は城山の東隣に昭和51年まで現存していました。
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こちらが、お城の北の曲輪です。やはり遠見の曲輪や、木ノ下城と同じ3D構造です。
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平成初期まで一部現存していた戦国時代の道

物見櫓があるからには、お城へ最短距離で結ばれ、急ぎ駆けつける「忍者道」もあるはずです。櫓を燃やすというのはもちろん最終手段にすぎません。昭和14年の愛知県丹羽郡楽田村土地宝典で確認してみます。
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令和時代の地図で検証してみましょう。
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青い点線部分の道が失われているようですが、航空写真で見てみます。
IMG_9062.jpegIMG_9063.jpeg赤丸部分の500年以上前の道の遺構が、土地境界として残っている事も、画像検証でわかります。1~2尺ほど高低差のある、畔道としては妙に立派な黒土の造りだったと記憶しています。まさかこれが戦国時代の道の一部とは、思いもしませんでした。戦国の道で遊んでいたなんて、今にして思えば贅沢な少年時代でした。

また、緑の丸の空き地ですが、おそらく道だった箇所だけ草の生え方等が微妙に異なっているはずです。道だった個所は固く踏み固められているため、周りに比べて背丈の低い草が多いと思われます。航空写真でも色が違います。


追記。赤丸の境界部分は高低差も昔のまま残っていました。印が当時の道があったところです。
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緑丸の空き地にも道の痕跡が残っていて、正直びっくりしました。ススキのような背の高い植物・他が、うまく根を張ることができないようです。80年以上前というのに、その土地の、その道の記憶というものは残り続けるのですね。
IMG_9168.jpegIMG_9090.jpeg敷地奥と、手前の道の痕跡部分では、草の生え方に違いがあって、興味深いものがあります。※なお今の世の中、地元の人以外が立ち入ると通報されるご時世ですのでご注意ください。…まあ入ったところで何も面白くないのですが。


しかし、この道。みれば見るほど忍者道です。今にも忍者が向こうから駆けてきそうです。
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今回の「新発見」について

ふたつとも、昔から楽田村にあった普通の神社であり、普通の土地境界です。考古学的には新発見ではありません。類例では令和4年に「法隆寺の駐車場にある植え込みが、実は古墳」という発見がありましたが、分類上はそれ(学術調査前の植込み)に近いと思います。
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斑鳩市教育委員会写真より画像引用

戦国時代が体感できる櫓・道・お城

さて遠くから楽田城へお越しの際には、お城跡に向かう前に、真っ先にぜひ歩道橋に上って北の方を眺めてみてください。「美濃勢」を日々監視した、尾張國織田家の先人たちの思いが甦るはずです。歩道橋という物見櫓で北方を見ると、美濃の山々が目視できます。国境は意外に近いのです。
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ふと目を瞑ると齋藤勢が立浪の旗を押し立て、尾張織田領内に押し寄せてくるのが見えてこないでしょうか?(見えましたね)
急ぎ北の曲輪、楽田城へ掛けつけるテイで、お城まで細い路地を歩いてみてください。忍者道はもう通れませんが稲木街道で行くことができます。
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道中は当時、右も左もほぼ全て田圃です。田圃の真ん中を突き進むイメージで。
そうこうしているとお城に着きます。天から織田城代の声が聞こえてくるはずです。「大儀!」と。


令和の今も残る楽田城の痕跡

まとめです。かけがえのない楽田城の歴史の遺産が増えました。
①伝移築門
②楽田城周のお堀の跡
③城北の曲輪(須賀神社)
④北之門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑤南門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑥裏門跡石碑から、お城に至る道の痕跡
⑦砦跡(内久保の三明神社)と内久保の一族の伝承
遠見の曲輪と、お城に至る忍者道の痕跡←NEW!!