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青塚古墳 犬山市

豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、巨大古墳群発見


皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
織田信長の領有を経て、小牧長久手の戦い太閤秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、

①楽田城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には城山古墳群があり、かつては狗奴国の環濠集落のひとつだった。
楽田城は複数の巨大古墳を切り崩し築造されており、戦国時代の城郭遺構の下に古代の古墳群が眠っている形となっている。 
七大古墳群のある楽田村と周辺地域は、百舌鳥・古市古墳群に次ぎ、日本で2番目の古墳密集地。前方後円墳はたった1基(青塚古墳)だけで、他の数百基は全て、コマ塚と呼ばれる、前方後方墳
④上記七大古墳群は隣の羽黒村や、外坪村、味岡村にも跨る。三ツ塚・長塚古墳群には500m~級の前方後方墳が1基、350~470m級の前方後方墳が4基、300m級複数基、270~280級複数基、260m級~はたくさん存在し、この地に狗奴國はあった。

以上のように、この記事では結論付けます。(なお記事主は、後にも述べる要件や手順を踏んではいません。さらに古墳群の存在を実証するためには、発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえることを、予め記載しておきます)

楽田村七大古墳群.png(参考)青塚姫之宮奥宮蓮池三ツ塚・長塚古墳群

松山鶴吉調査の図.png
すべての始まりは大正5年、記事主の曾祖父による青塚附近古墳分布圖(以下、調査図)でした。調査図を基に、楽田村の古墳群を検証するうちに、邪馬台国論争に終止符を打つ可能性を秘めた狗奴国中枢の巨大首長墳が疎明されたことは、「魏志倭人伝」の記述を裏付け、空白の四世紀を解明する考古学史上最大の衝撃の一つと成り得るものです。松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)の調査がなければ、記事主による発見も有りません。


まずは青塚古墳群の東側から検証をはじめます。結論から申し上げると、大和朝廷の前方後円墳は青塚古墳のみです。あとは全て狗奴国系と思われる前方後方墳とわかりました。古墳群西側.jpgこれまでの通説において、青塚古墳群青塚古墳を盟主とした古墳群で、他は全て小墳(倍塚)と解されてきましたが、実は全く異なる系統の大小墳墓の真っ只中にあるという、「完全アウェイ」状態だったのです。

西唐曾コマ塚古墳は、調査図に「コマ塚」とありますが、(巾コマ塚古墳も含めて)はたして前方後円墳なのか、前方後方墳なのか判別に困りました。昭和24の米軍撮影空中写真を確認すると、ハタと気づきました。確かに「コマだ!」「コマ塚」とは形のことだったのかと。それと同時に直感しました。「調査図って、実は郷土史にとっての価値だけではなく、古墳時代研究全体においても歴史的価値のある図ではないのか」と。
コマ塚.jpg
前方後方墳の研究が本格的に始まったのは昭和22年の、梅原末治博士と島根大学の山本清武博士による島根県・金崎一号墳の発掘調査とあります。研究論文では、昭和37年に発表された明治大学の大塚初重博士「前方後方墳序説」のタイトルが事実上の初出です。
要するに大正5年当時は前方後方墳という学術用語はなかったのです。私費による所有権に基づく青塚古墳群の発掘調査当時は明治維新から50年も経っておらず、かつ帝国大学令公布からまだ30年あまりの考古学の黎明期であって、特に前方後方墳の形態的特徴や、もちろんその意義(狗奴国との関係性)も明確に理解されていませんでした。
そのような限られた知見のなか、「コマ塚」という表現によって、単純化・記号化することにより、「四角い後方部」と「長細い前方部」の形状を既存の語彙力を使って写し取り、第三者に伝えようとする松山鶴吉の意図が読み取れます。当時誰にとっても馴染みのある「独楽(コマ)」に例える単純化の技術により、学術用語がないハンデを克服しています。また複雑な測量図面を共有できない大正時代において、「コマのような形」という記号化は、第三者の脳内に瞬時に共通のイメージを形成させる強力なツールといえました。

曾祖父の眼力

これが先に述べた、古墳時代研究の歴史上の価値(先駆的事例)に相当するのです。すなわち、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③文字記録として後世に残した日本で最初の人物は松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)だったことを意味します。塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていましたが…
※ …以下が、やや長くなりましたので、別サイトに纏めておきました。読み飛ばしてOKです。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1822

※なお、曾祖父の少年時代は天保年間から流行った鉄胴型や、唐コマが主流で、明治の頃には木製・竹製から、ブリキ製に移り変わったそうですが、いずれにせよ、この形のコマがなじみ深かったものと想像します。


閑話休題。平塚古墳群の痕跡は消滅してしまいましたが、その地名は「平塚・北平塚・上平塚・中平塚・下平塚」として、今も残っています。タモリはこう言います。「地名はその土地の記憶だよね。だから簡単に変えちゃダメなんだよ」と。

平塚古墳群.jpg
平塚第1号墳跡は現在は株式会社コーミソース工場・カルビーロジスティクス 中部センターに、平塚第2号墳跡は武田製菓本社工場・お菓子の城になっています。なお平塚の古墳は羽黒村にあるため、調査図には記載されていません。

巾下古墳群01.png
武智屋敷古墳太吉屋敷古墳のある巾集落には記事主の親戚や友人、知人も住んでいますが、なぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、疑問でしたが、まさか古墳の上にまとまって住んでいたとは。


・青塚古墳のすぐ南東に調査図記載の古墳(コマ塚)が見つかりました。調査図にはコマ塚が二回登場しますが、このこともコマ塚=固有名詞ではなく、古墳形状を指し示す証明となります。地名から一色浦古墳とこの記事では呼称します。形状から、こちらも狗奴國系の前方後方墳と思われます。

一色浦古墳.jpg先述の巾集落と同じく、記事主の同級生が、一色浦集落に住んでいますが、やはりなぜこの場所に「ぎゅっ!」と纏まって住んでいるのか、昔から疑問でしたが、古墳の上にまとまって住んでいたとは…。古墳の遺構は周囲の水田よりも少し高くなっているため、一色浦集落において、貴重で(対水害・地震にも安全な居住地/微高地)と解します。

一色浦古墳.png
現在も残る狗奴国の痕跡。一色浦古墳後方部(南側)境界


続けて、調査図の西端の亀塚について検討します。この集落は大円(だいえん)といって、楽田村の西の端にあります。記事主は前からこの集落が気になっていました。というのはここから徒歩で小学校まで通う同級もいたからです。

徒歩通学.jpgこの通り、青塚集落よりも、さらにもっと遠いのです。通学路ですから、最短距離を歩くわけにもいかず、子供の足で1時間半以上かかります。隣の行政区、小牧市の小学校に行った方が余程近いのです。小学生時代の記事主にとっては見たことも聞いたこともない世界が大円なのです。その大円ですが、昭和23年の米軍撮影空中写真で地図で確認すると、狗奴国系の前方後方墳らしきものがありますので、(コマ塚と同じく形から)こちらが石亀塚および亀塚と結論します。石亀塚が「石亀が首を伸ばした形状」で、亀塚は「甲羅の形」というわけです。他にもたくさんの古墳がありますが、楽田村の境界の外側なので、調査図には記載されていないと思われます。

大圓環濠集落.jpg昭和23年の国土地理院空中写真の亀塚です。
亀塚.png

樂田大圓(大円)の地名の由来になったと思われる大きな円形の土地境界狗奴国の環濠集落の痕跡で、まず間違いないと思います。亀塚のある、第1号環濠集落からは、東南にのびるうねうねした道桝形が3カ所確認できます。外敵の侵入に備えた当時の道の痕跡なのでしょう。1800年前に桝形があったのは驚愕するしかありません。いわゆる「倭国大乱」の間接的証拠楽田村の大圓環濠集落遺跡にもあったことになりますが、現在は耕地整理され、土地境界は完全に失われています。

環濠集落.png
高槻市・島本町地域NEWS 号外NET様HPより画像引用
https://takatsuki.goguynet.jp/2021/02/25/amaiseki_koen_2jikaien_area_report/

仮定の話.png桝形.jpg防御としての「桝形(ますがた)虎口」は、主に戦国時代末期(16世紀中頃〜末期)、特に織田・豊臣政権下で急速に普及・発展した城郭の防御構造ですが、狗奴国邪馬台国の時代にすでにあったとなると、1300年時代を先取っていたことになります。しかし桝形がなぜ織田・豊臣政権下で普及したのでしょうか? …もしかすると、集落に立ち寄った織田方の武将の誰かが、尾張楽田村の大圓環濠集落遺跡から着想を得たことも十分考えられます。歴史のロマンですね。

戦国時代の大圓集落.png
Googleジェミニさんに頼んだら想像図を作ってくれました。

大円第1と、東隣の第2環濠集落の南側にも、たくさんのコマ塚と、小型の環濠集落を見つけることができました。(第2環濠集落は図が煩雑になるので円形を省略してあります)
大圓環濠集落南.jpgぱっと目につくだけでも、22基のコマ塚が確認できます。周辺には200基くらいあると思います。岩崎山の岩屋古墳もそうでしょう。やはり前方後円墳は見当たりません。数のうえで日本最大の前方後方墳(コマ塚)の群集地域はこの一帯と、この記事では結論します。
空中写真で確認すると環濠集落は他にもたくさん(100集落以上)あります。青塚古墳のすぐ南側と、一色浦、巾の太吉屋敷・武智屋敷・巾コマ塚、そして城山城址の現楽田小学校も、元々狗奴国の環濠集落だったことが、土地境界からみてとれます。

青塚古墳群再考

青塚古墳を除く青塚古墳群西側は、すべて狗奴国系のコマ塚で間違いないと思います。というのは現存する痕跡はもちろん、調査図にある、耳塚や、花塚、九器塚、その他の当該箇所を探しても、前方後円墳独特の円形+台形の境界が見つからないのです。(逆にコマ塚型の境界らしきものはアチらコチらに散見することができます。)

調査図.ver2.0.jpg

青塚古墳群のすぐ西隣の神明社の敷地内にも古墳がありますが、こちらもやはりコマ塚の形をしています。こちらの神社は「とつぼさん」と呼ばれ、地元の皆様から親しまれています。平塚の古墳と同じく、隣の行政区、外坪村にあるため、調査図には載っていません。

外坪神明社古墳.jpg

耳塚の記憶

記事主が小学生の頃、校外学習の一環で青塚古墳を訪れましたが、当時は耳塚が現存していました。樹木が生い茂る中に、白っぽい円墳状の倍塚がふたつ並んでいて、やはり墳丘は削平された状態かつ、まん丸ではなく、角の取れた縦長のものが、並列する様は言われてみれば確かに左右の耳のようでした。(おそらく前方部と後方部の残存部で、元はひとつの古墳と思われます)


数百のコマ塚

青塚古墳群は以上で、続けて姫之宮古墳群奥宮古墳群蓮池古墳群 で、全て狗奴国系です。姫之宮古墳群.jpg昭和36年国土地理院空中写真より、令和8年 記事主作成姫之宮古墳群奥宮古墳群、及び三ツ塚・長塚古墳群

奥宮古墳群.jpg奥宮古墳群のうち、まずは15基のみ境界作図しました。やはり狗奴国系の前方後方墳古墳です。前方後円墳は一基もありません。

蓮池古墳群.png
蓮池古墳群 特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク様HPより画像引用
https://niwasato.net/home/archives/7336/

蓮池古墳群1952年の調査図につき、6-15号墳・5-7号墳・2-3号墳・8-9号墳は、測ったように間隔が同じですので、八基の円墳ではなく、四基のコマ塚と思われます。いうまでもなく、調査当時はここが狗奴国・前方後方墳地域とは知られていません。古墳の形状の判別は簡単のようで、難しいものです。例えば前方部と後円部が実は逆だった、二つの円墳と思われていたものが一つの前方後円墳だった、円墳は実は方墳の経年の風化によるもの…

閑話休題。この古墳群は、大和朝廷に遠慮するかのように、眼立たない場所に古墳群があるのが特徴です。なぜこのように目立たない場所に古墳群を?と思っていましたが、今回の記事作成の過程で、だんだん見えてきた気がします。

現存する長塚古墳

三ツ塚・長塚古墳群.jpgやはりこちらも前方後方墳の古墳群です。空中写真で現存する長塚古墳を見たとき、衝撃を受けました。明らかに大和朝廷の古墳とは異質・異文化・異形態で、3世紀以前の楽田村は狗奴国、もしくは別王朝とするしかありません。楽田に住む人でも、長塚という地名は聞いたことがある人は多いと思いますが、古墳の存在自体は、ほぼ誰も知らないと思います。犬山市最大の前方後方墳は東之宮古墳の72~78mとされますが、実は市内最大は長塚古墳の約80mということになります。

現存する以上、この地は狗奴国の可能性が高く、必然的に邪馬台国は畿内説になります。
この記事ではこれ以上言及するには容量が足りませんので、別記事に纏めておきました。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810
狗奴國首長墳発見

長塚古墳01.png長塚古墳02.png

城山古墳群発見の経緯

記事主は以前より、まるで大阪城真田丸のような出城、楽田城小城址が気になっていました。検証したところ、コマ塚と判明し、お城の周囲には古墳群が存在していることが分かりました。この記事では城山古墳群と仮称しますが、他県の城山古墳群と区別するために、集落名の本郷より本郷城山古墳群(ほんごう-しろやま-こふんぐん)と呼称した方がいいかもしれません。

IMG_9290.jpegIMG_9135.jpeg

IMG_9201.jpeg実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。


次に楽田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。
IMG_9287.jpeg記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森の間に、道が通っていることがわかります。

IMG_9288.jpeg

昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。
IMG_9289.jpeg

昭和23年の米軍空中写真を見ると、後方部の□の痕跡がわかりやすく、あきらかに前方後方墳です。小城址傾斜は古墳時代の名残だったのです。
樂田城眞田丸古墳02.jpg樂田城眞田丸古墳01.png

古墳跡地では、古代と中世、近世と現代が交差する

城山古墳群も、すべて狗奴国の前方後方墳で、前方後円墳は見当たりません。大円環濠集落と同じく、古代の城山もまた、環濠集落と思われます。北と南の丸い境界がそれを物語っています。この地域には100近い環濠集落の境界が見受けられます。城山古墳群02.jpg城山古墳群01.png

密集地の拡大画像です。密集地02.jpg密集地01.png

昭和52年国土地理院航空写真での検証です。
環濠集落南部02.jpg環濠集落南部01.png

楽田の古墳たちの命名について

次世代につなげるためにもいつの日か、特に楽田小学校周辺の古墳は、児童の皆さんで命名してくれる日がくることを願っています。

未来への遺産.png
藤子・F・不二雄先生「 ドラえもん」のび太もたまには考える小学六年生 1983年3月号/大全集10巻より、画像引用

大和朝廷~現代とは、根本的に発想が異なる土地境界

それにしても本郷という土地には、狗奴国の境界がそのまま現存していることがわかります。
第16号墳と第17号墳境界.jpeg
城山第16・17号墳.png

密集地です。こちらも境界が古代のままです。
現存する古代の境界.jpg

1000年後、古墳は土塁になった

さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。小牧長久手の合戦において、防御陣地構築の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。豊臣秀吉10万の大軍をもってすれば極めて短時日で構築可能だったと思われます。土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。逆に言いますとこれは古代から戦国時代までの、1000年間、地元本郷の先祖代々「板津さん」「梅村さん」「服部さん」たちが、古墳群を大切に護ってきたことを証明しています。
お城の土塁.png

戦国時代よりも以前の楽田城は、複数基の前方後方墳

そもそも楽田城ですが、何故あんなに平らになっているのか疑問です。記事主は複数の古墳を潰して平らにして造られたものと考えています。何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳を改修する方が効率的だからです。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、複数基の巨大古墳を潰した築城…もっといえば更に10基以上の古墳も潰して土塁にしたのは日本で楽田城だけと思われます。なぜならベースとなる楽田城段丘の地質が周囲の平地と全く変わりないからです。
地質.png

濃尾平野には「ポツンと段丘」が楽田城の他に、岩崎山小牧山がありますが、それぞれ花崗岩チャートです。楽田城段丘状たる地質学的必然性が不明で、環濠集落と、集落中の巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。

名古屋空港.JPG
※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場が造成される以前には岡山佛鬼山という標高二十メートルの段丘がありました。やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われますが、今となっては確かめる術がありません。


【楽田城址の略式年譜】

 ①原初は狗奴国の環濠集落
 ②集落内部と周囲には複数のコマ塚があった。
 ③中世も引き続き集落として機能
 ④戦国に入り、防御的な地形や立地が再評価され楽田城に。
 ⑤小牧長久手の戦いで豊臣秀吉が本陣とし、土塁を補強。
 ⑥近世において、小学校の敷地となり現在に至る。

唯一の前方後円墳

七大古墳群を検証してきましたが、たった一基、青塚古墳の他は全て広大な狗奴国の古墳群ということがわかりました。
ヤマト系の青塚古墳は、まるでラムセス2世が紀元前13世紀頃にヌビア(現スーダン北部)の地に建造したアブ・シンベル大神殿のように、記事主には見えます。これは現地住民に神格化されたファラオの強大な力を、誇示するためのものです。
青塚古墳は、王朝交代を元狗奴国の領民たちに示すための象徴だったと、この記事では結論付けます。平たい2Dの土の狗奴国古墳に比べて、3D構造のヤマト型墳丘は葺石で白く光り輝き、その役割を存分に果たしたことと思われます。

Panorama_Abu_Simbel_crop.jpg
アブ・シンベル神殿(Wikipedia)

ko.jpg
青塚古墳(犬山市公式HPより)

楽田の古墳群.jpg

青塚古墳群秘史(古墳の一族の物語)


皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
記事タイトルの、青塚古墳」ついて、犬山市教育委員会の公式HPから引用します。

■青塚古墳群
周辺にはかつて多数の小さな古墳があり、青塚古墳群を形成していたことがわかってます現在は、わずかに数基が残っているだけです。(後略)

さらりと、青塚古墳群を形成していたことがわかってます …と書いてありますが、なぜそれがわかるのでしょうか?

こちらをご覧ください。記事主の曾祖父が作成した図になります。

松山鶴吉調査の図.png

「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告 第八」によれば、「大正5年の曾祖父の調査図が第一次資料」になっています。これからも松山鶴吉氏の調査によれば…と、引用は続けられるでしょう。曾祖父は郷土史に名前を残したことになります。調査図は曾祖父が個人の資格と、個人で拠出した資金による、所有権に基づく発掘調査の折に作成されたものですが、しかしどうして学者の研究論文ではなく、曾祖父の調査図なのでしょうか?

戦前の考古学研究費(スポンサー獲得)は学者個人の人脈頼み。

結論から述べると「明治・大正当時の世相がそうだった」ということになるのでしょうか。ご本家当主の松山鶴吉は世襲名 松山忠左衛門を名乗った最後の人です。大正5年当時、青塚古墳は忠左​さん個人所有の前方後円墳で、のちに尾張二宮の大縣神社さんに寄進しました。
明治~大正当時は食糧難の時代でした。近代化による急激な人口増と米食率の増加によって食糧難は、より拍車がかかりました。国際連盟の常任理事「一等国ニッポン」でしたが、その影では食べていくのに精一杯の時代でもあったのです。↓グラフは明治期の米の需給です。※こうした米の需給の逼迫と価格の高騰は、大正7年(1918年)に発生した米騒動の背景にもなりました。

IMG_9010.jpeg

礼節ト遺跡ハ、主食足リテ

昭和初期には米の自給率は85%まで落ち込みます。いま古代遺跡への関心は広く世間に浸透していますが、これは主に戦後の文化であって、以下のプロセスを辿ったといいます。
①敗戦によるアイデンティティの喪失と、
②戦後復興とインフラ整備により急激に変わりゆく国土。
③それらと古墳に代表される日本人の古代への情熱は表裏一体を成し、
④戦前には左程見向きもされなかった、遺跡発掘のニュースは世間の興味関心を呼び、
⑤「岩宿遺跡発見!」「登呂遺跡発掘調査再開!」など、たびたび新聞誌面を賑わせました。
※非常に多様で不安定な資金源に依存していた考古学会も次第に組織化され、公的資金提供制度が確立されるようになりました。

人々が積極的に古代に目を向けようとしなかった明治・大正時代、考古学者も、歴史家も、地元楽田村の人々さえも然程関心を示そうとしなかった青塚古墳群に、いち庶民の曾祖父がなぜ、消えゆく古墳群の記憶を後世に残し、青塚古墳の寄進をしたのでしょうか。記事タイトルの通り、そこには郷土の歴史物語がありました。

楽田と周辺には県下最大級の古墳が複数基

ここで少し余談です。愛知県最大の断夫山古墳が造られるまでの200年間、前方後円墳に限れば、青塚古墳は尾張國で最大規模の人工築造物でした。江戸期に例えるなら名古屋城が楽田村にあるようなものです。300年、400年と長きにわたって濃尾で最も栄えた土地のひとつは楽田だったといえます。200年というのは非常に長い年月です。たとえば明治維新から令和の現在まで、まだ160年も経っていません。

楽田村には七大古墳群があって、消滅した古墳も含めて200基あまりとなると、日本では百舌鳥古市古墳群に次ぎ、久津川古墳群に並ぶものになります。(なお古墳群の存在を今の技術で証明するためには測量・発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえます)


。実在が確認できるなら世界遺産暫定リスト(Tentative List)入りレベルであって、巨大古墳が多く存在したのを現在に例えると、名駅前に巨大ビルがたくさんあるようなものです。そのように、長きに渡り栄えた地域がなぜこんな片田舎たる楽田の地なのでしょうか?

のび太君の考察.png
藤子・F・不二雄先生「 ドラえもん」のび太もたまには考える小学六年生 1983年3月号/大全集10巻より、画像引用

楽田の古墳群は、百舌鳥・古市古墳群に次ぐ、国内2番目の規模

結論から先に申し上げます。要因のひとつはコメの品質で。青塚古墳群や、蓮池古墳群、姫之宮古墳群、奥宮古墳群、三ツ塚・長塚古墳群そして城山古墳群と、数百基あまりの古墳があるだけあって、旧楽田村で穫れる米は地形的に尾張の平野地域で最も美味いそうです。
楽田の古墳群.jpg七大古墳群のある楽田村の田んぼで獲れる米が美味い…これはどの考古学資料にも載っていませんし、学問の分野ではないので、これからも載ることはありません。↓画像は楽田の里山と田風景です。里山の花崗岩の天然フィルターで濾過された天然水は、地上と地下の水脈になって、楽田の田を潤します。
尾張楽田村.png

楽田のコメは、古代の'新潟産無農薬特別栽培コシヒカリ'

状況証拠からの推測に過ぎませんが、楽田の地は非常に豊かであって、平たくいえば「楽田のコメは売れた」「換金率のいい古代の金融商品」だったのです。いちど美味い米を食べると、もう後には戻れないものです。

尾州楽田村.png

蓮池付近.png

金明水.jpg尾張冨士大宮浅間神社 湧き水「金明水」※X ながまる様のポストより画像引用させていただきました。ながまる様有難うございます。https://x.com/nagamaru602/status/1939522434211983417

八曾滝.jpg
落差18mの八曾滝は、楽田を流れる薬師川の水源のひとつ。古来より西日本でも屈指の名水として知られる。環境省「平成の名水百選」より https://water-pub.env.go.jp/water-pub/mizu-site/newmeisui/data/index.asp?info=57


古代の稲作と地勢

①楽田より西の濃尾平野はかつては東海湖と呼ばれる巨大な湖でした。(※濃尾西部は陸化した湖底土のため凝集性や侵食抵抗性が極めて小さく、けっして肥沃とはいえませんが、それを逆手にとって地域の強みとし、養蚕業と繊維産業が大いに発達しました)

②楽田の南側も東海湖の名残で名古屋城のすぐ北側まで湿地帯が広がっていました。(※この地域もまた、今では県内有数の航空宇宙産業の集積地として発展しています)

お隣の※③美濃国では木曾三川を筆頭に河川の氾濫に悩まされる土地柄で、④三河国や⑤知多半島は、大きな河川が少ない台地状の地形であることなどから、伝統的に慢性の水不足に悩まされてきました。この歴史的な課題を解決するためには、豊川用水や愛知用水といった大規模な水利事業を待たねばなりませんが、現在では自動車産業、重化学工業、セントレア誘致成功と、大きな発展を遂げています。

※③美濃国最大古墳昼飯大塚古墳のすぐ近くにも、やはり「楽田町」の地名があります。明治22年当時は安八郡楽田村でした。安八郡楽田村の近辺も、土地が肥沃かつ地下水も豊富、良質のコメが穫れるのではないかと思われます。↓画像は現在の大垣市楽田町。豊富な水量と、やはり土地の力強さを感じます。

大垣楽田町.png

そっくりな青塚古墳と、昼飯大塚古墳

余談ですが、濃尾平野の二つの巨大古墳と、二つの楽田村には密接な関連性があると記事主は解します。青塚古墳と、昼飯大塚古墳の墳形は、後円部に比して前方部が短い形状で、瓜ふたつです。状況証拠に過ぎませんが楽田という地名には「神々もお喜びになられるほど美味しいコメが穫れる御田」という土地の記憶があると考えられます。

その後の追跡調査で判明しましたが、青塚古墳群は、「青塚古墳および、青塚古墳を盟主とした小さな倍塚で構成されている」と考えられてきましたが、前方後円墳は青塚古墳のみで、ほかは大小の狗奴国系の前方後方墳と判明しました。したがって、巨大古墳築造の目的のひとつは、王朝交代を元狗奴国の領民たちに示すための象徴だったと結論付けました。

要するにそっくりということは、大和朝廷から派遣された同じ技術者集団による、同じ設計思想、同じ設計目的と考えられるので、昼飯大塚古墳の周囲も狗奴国系の前方後方墳が非常に多い地域と考えられます。ただし上記はこの記事の内容からややそれますので、これ以上の記述は控えておきます。

楽田村の祖先「子孫に美田を残せ」

閑話休題。尾張楽田の土地は木曽川扇状地の粘土質により、保水力と水はけのバランスに優れ、稲の根が安定して土中に深く伸びやすく、有機物や栄養素を適切に保持するといいます。楽田の稲に土壌の酸欠状態というのは有り得ないのです。先祖代々大切に守られ、水田の底に沈みこんだ、きめ細やかな楽田の土は、もはや何ものにも代え難いのです。仮に、「楽田の水田と同等の土をつくれ!」と何処の誰かが命令したとします。完成するのは同じ手間暇をかけたとしても1700年後、もっといえば木曽川の堆積で十数万年…要するに再現不可能です。
さらには里山が近くにあり水質が抜群に良くミネラルが豊富、台地の縁にあるため地下水脈水量も豊富。当家の庭にも手押しポンプがありました。昭和40年代、近くに工業団地ができるまでは、綺麗でおいしい豊富な井戸水がタダで使いたい放題使えたそうです。夏場はスイカも冷やしたと言っていました。

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比較的内陸部にあるため寒暖差もあります。楽田〜各務原の辺りは濃尾平野南部に比べて夏の昼間の平均気温が1℃高いそうです。風が吹きません。各務原飛行場・小牧飛行場があるくらい「風が穏やかな土地」なのです。記事主は現在名古屋市内在住ですが、灼熱の楽田?よりも涼しく感じます。そんな灼熱の楽田も早朝に限っては里山が太陽光を遮り、冷涼で快適です。

記事主も少年時代、祖父のお墓のある楽田の里山にクワガタを探しに行ったものです。真夏というのに、それはそれは冷んやりしていました。そんな里山のおかげで朝の空気は冷やされ、米粒の中にデンプンがより多く蓄積され粘りや甘みの強いお米が育つと思われます。

…そのような寒暖差かつ、まとまった平地(楽田五千石)と、近隣地域に比べて米作りの好条件がいくつも重なっていました。巨大古墳が存在するくらいです。古代の権力者も、おそらく大のコメ好きで、この米どころの楽田の肥沃かつ気象変動に強い土地を気に入り、趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤としたのでしょう。※近隣村では、楽田村よりも山間部の旧今井村のコメのほうが、もっと旨いことを記しておきます(個人の感想です)。がしかし、古墳時代や、南北朝時代当時では山間部の耕地面積は限られていました。輸送手段のトラックなんてもちろんありません。平野部でこれだけの品質で、しかも纏まった実質五千石穫れるのは現実的に大きかったと解します。

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葉栗・丹羽十人衆

楽田のお米は、古代の権力者だけではなく、南北朝時代以来、飛保の曼荼羅寺さんへの奉納米としても珍重されてきました。これは旧楽田村の松山一族の檀家しか知りません(笑)。お寺の他の檀家さんは現金かお米(ほぼ現金)のお布施のところ、楽田のお米だけは、コメが大幅に値上がりする前の、令和のつい最近まで、文字通り楽田だけが最後の最後までお寺の求めで米の奉納をしていたそうです。米の奉納は800年間先祖代々延々と当たり前に続いてきたことなので、楽田以外の他の丹羽十人衆ご子孫の檀家さんが(ほぼ現金)でお布施しているなんて、一族の誰も気が付かなかったそうです。

曼荼羅寺さんがこっそりと伏せておく?くらい、曼荼羅寺さんも太鼓判の、曼荼羅寺さんも大好きで甘みがありもちもちとした食感で、冷めても美味しい、濃尾平野のココだけでしか採れない究極のお米です。「身土不二(しんどふじ)」ではありませんが、人間の身体とそれが生きる土地と農作物は一体であって、切り離せません。他地域のブランド米もバツグンに美味しいのですが、尾張の気候風土に合ったコメを食べるほうが、よりおいしく、健康に良く寿命も延びることを曼荼羅寺さんもよくご存じだったと思うのです。曼荼羅寺の歴代おっさま、もちろん長寿命です。

他の丹羽十人衆のご子孫? 丹羽十人衆ってなんでしょう? 


松山家のご先祖様は清和源氏の一流で、楠木正成(大楠公)と共に千早城の戦いに参加しています。正慶乱離志『楠木合戦注文』によれば、天王寺の構を攻めた正成の軍勢は、四条少将以下、楠木一族、(中略)、判官代 松山ならびに子息等、(後略)…と記録されています。もともとは後醍醐天皇のもとで政務を補佐し、御皇室の土地の管理や年貢の徴収、庶務などを担当(判官代)していた京武士で、大楠公に加勢しました。松山一族郎党は、おそらく40~50人の加勢ですが、技術顧問としても存分に力を発揮したと解します。松山一族は土木工事・治水事業の技能集団でもあったらしく、兵庫県三田(さんだ)市(松山の庄)には多くの砦や城、そして松山の堰を築くなど、善政によって地元領民から感謝されています。千早城の戦いの、二重の壁、丸太落とし、石落とし等の仕掛けにも、松山氏の建築土木技術があったと考えるのが自然ではないでしょうか。

…しかし、お味方800人に対し、鎌倉軍は一説によると100万人。戦力差は1:1250です。鎌倉軍を足止めして、幕府の権威を失墜させれば勝利と、頭ではわかるのですが、それにしても我がご先祖ながら凄い気合いと、決断力です。

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趣味嗜好と実益

時は流れ、ここ尾張の國 丹羽郡の地に根を張り、曼荼羅寺(後醍醐天皇の叔父が開山)を菩提寺とした、「負けると分かっている湊川の戦いに大楠公のために、あえて参加し、生き残った」俠気(おとこぎ)ある「葉栗丹羽十人衆」の一人ですが、なぜ松山一族だけが曼荼羅寺から遠く離れた、里山に近い楽田の荘を根拠地に決めたのか、疑問でした。以前は対北朝戦に備え、大楠公伝統の山岳ゲリラ戦の軍事戦略のために寺領の荘官として任官された…と解していました。実際200年後、尾張本宮山は織田信長が一大城塞の候補地にするほどでした…が、まさか古墳の一族と同じ理由「趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤とした」だったなんて!…歴史は繰り返すものです。元の官職が判官代なので土地を見極める眼力は確かだったのもありますが、実は他にもう一つ大きな理由「太古の記憶」があったのです。美濃楽田の一族の考察と同じく、土地・ヒトの趣味嗜好・実益が三位一体なら、まず血縁関係を考えるべきなのです。

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日本の国だけに起こり得る物語

先に記事主は「大和朝廷は、豪族との婚姻を通じて政治的な連携を強化し、支配体制を確立・維持。これは古代日本の重要な統治戦略の一つ」と記述しました。楽田の巨大古墳の一族の血脈も、女系を通じて天皇家に流れていることは巨大古墳の存在から考えると極めて可能性が高いと解します。

尾張國では三人の王女(姫)の入内がつとに知られています。

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大海媛(おおあまひめ)は尾張連(おわりのむらじ)の祖の王女で、景行天皇の妃となり、大碓皇子(おおうすのみこ)と小碓皇子(おうすのみこ、後の日本武尊)の母にあたります。
宮簀媛(みやずひめ、生没年不詳)は尾張國造の女性。日本武尊の妃(きさき)であり、熱田神宮の創祀(草薙御剣)に関わる重要人物です。

姫巫女ノ舞『祈り』 宮簀媛物語〜熱田神宮の御祭神・日本武尊の御妃〜 宮ノ舞 巫女舞 奉納舞
熱田神宮 「宮ノ舞 巫女舞 奉納舞」youtube動画サムネイルより画像引用 https://www.youtube.com/watch?v=rk07A8R1z28

目子媛(めのこひめ)は継継体天皇の皇后、尾張連草香の娘。「安閑天皇」「宣化天皇」の母宮にあたります。現存する愛知県最大の断夫山古墳は目子媛の父である尾張連草香の墳墓とされます。
このように大和朝廷尾張國は強固な結びつきがありました。

令和書籍の「記紀が伝える日本統ー」の記述を引用します。

大和朝廷が成立した当時の国内の文字資料は見つかっていませんが、「日本書紀」は、神武天皇御即位の後、第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの間に列島内の同盟政策が進められたことを記しています。
古事記」にはかなり詳しい系譜が書かれていて、皇室が各地の豪族と婚姻関係を結ぶことで同盟政策を進めていったことが反映されたものとの見解があります。

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そして先述の通り、松山一族は、多田源氏の流れをくむ清和源氏の一流(継体天皇天智天皇桓武天皇清和天皇の子孫)でもあります。https://www.rescue-119.jp/news/archives/1695 

南北朝時代にご先祖様が感じ取ったかもしれない土地に対する既視感、記事主には解ります。それは古代楽田の古墳の一族の子孫が、千年の月日を経て楽田の地に戻ってきたということ。さらに時を経て大正時代には1600年ぶりに青塚古墳の所有権も、子孫の松山鶴吉に戻っていたと。

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曽祖父が青塚古墳を大縣神社に寄進し、未来永劫の保存を願うことは、子孫として必然だったのです。これは「神話の世界から今に続く歴史ロマン」であって、もはや手塚治先生の「火の鳥」の世界です。
神皇正統記ではありませんが、このように過去と未来が一本に続く郷土の歴史物語があり得るのは日本ではもちろん、世界でも唯一、青塚古墳のみではないでしょうか。
皇室はタイムカプセル」という表現は、御皇室が伝統文化や歴史的様式を現代まで継承・保持しているという側面を比喩的に表す際によく使われますが、古代の血脈はもちろん、まさか1700年前の人々の記憶や、土地の記憶まで保存されているなんて! 

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楽田小学校の施設充実は明治5年義校以来の伝統

楽田の青塚古墳は(現存では)愛知県で二番目の規模ですが、楽田にはもうひとつ、県内二番手級があるのを御存じでしょうか。それは楽田小学校の歴史です。愛知県で一番古い小学校は、名古屋の丸の内小学校(名古屋第一義校)の明治4年10月ですが、楽田小学校は明治5年6月14日開校です。wikiで調べてみると近隣の犬山、羽黒、城東、小牧、古知野…すべて明治6年以降とあります。名古屋武家屋敷の第五義校、筒井小学校(明治5年10月)よりも4か月早い開校になっています。廃藩置県により名古屋県となった後の1871年(明治4年)9月、県は一般庶民の学校として民間有志による「義校」の設置を奨励しましたが、当時の楽田村の村長、松山庄七をはじめ地元有志の尽力で、旧丹羽郡内では最も早く、愛知県内でも5番目に早い開校に至りました。都心でもない片田舎の義校にも関わらず驚異的な早さと解しますが、じつはこれも古墳の一族の物語と無関係ではないのです。


ここでちょっと飯テ…コーヒーブレイクです。楽田小学校の創立記念日は(太陰暦)6月14日ということになりますが、なぜ6月かというと、田植えを避けるためです。私の父の小学校時代ですら田植え休み(農繁休暇)があったと言っていました。(皆様は、田植えのあとのお昼休憩に、ご近所さんや、友達、親戚一同で食べる、その郷土、その家伝来のお田植え料理って世界一旨いことをご存じでしょうか?料理が染み入ります。大勢の人にご披露するので、嫁・姑もこの日ばかりは自然と一致団結、腕の見せ所でもあるのです)

IMG_7754.jpeg明治5年当時の田植えは旧暦5~6月に行われていました。田植えに至るまでにも、田起こし(たおこし)、基肥(きひ)、畦塗り(あぜぬり)入水、代掻き(しろかき)が必要で、しかも五千石の広大な楽田の水田です。名古屋の第三、第四義校のように新春開校…という訳にはいかなかったのです。愛知県最速級で開校しようと思えばできないこともなかったと思いますが、村民の反発等、現実との擦り合わせの結果でした。農家にとっては子どもは重要な労働力として期待されていたのです。(小中学生って無限の体力がありますからねぇ…)近隣の義校もやはり、明治6年~8年の田植えや、稲刈りが終わった頃に開校しています。

校訓「強く・明るく・正しく」のルーツ

閑話休題。松山庄七の長子、松山義根(のちに第一回帝国議会 衆議院議員)が初代校長となり邸宅を義校に提供しましたが、江戸時代に名古屋相撲の相撲部屋「松山部屋」が松山の邸宅にありました。庄七本人も体躯が大きく、部屋の親方(オーナー)兼力士であって、両大関の三ツ湊、相見山も所属していた部屋ですが、その建物や土俵が残っていて校舎としたようです。私の少年時代にも、丸い土俵のあとが残っていました。(旧松山庄七宅は私、記事主の父の実家です)きっと明治時代の義校生たちも、元力士の校長の父の本格的指導のもと、勉学の合間に相撲を取って運動にも励んだのでしょう。↓は旧釜石製鐵所相撲道場より画像引用。土俵は、このような雰囲気だったと思います。

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もしかすると、日本初の運動施設のある小学校は楽田小学校だったかもしれませんし、松山庄七は日本の小学校初の体育の先生だったかもしれません。(元親方の血が騒がない筈がありません)。以下は記事主の想像ですが、中らずと雖も遠からず…といったところでしょう。
…それは明治5年夏のある日の出来事でした。プロ仕様の本格的土俵を、日々横目でちらちら見ながら過ごす義校生たち。校長先生!アノ土俵デ、相撲ヲ取リタヰノデス!待ってましたとばかりに、義根校長は母屋から父、庄七を呼んだことでしょう。「ヨシ!全員褌一丁!になれ!」義校生たちは互いに顔を見合わせ「ヤッタア!(笑)」と大喜び。稽古の後は敷地に接して南を流れている台地の端の水量豊富清涼な明治時代の川で土俵の土だらけの身を清めて、ついでに水練・川で遊んで更に大喜びだった事でしょう。日本の義校初の水練の授業です。(令和現在、暗渠になっています)。
その次の日も、授業の合間や終わりに稽古は続きました。「四股を踏むには…鉄砲柱に…擦り足は…立ち合いは…土俵の上では強く!、(稽古の後は明るく!)…正しい礼儀作法は…」校生たちがケガをしないように、基礎からみっちり教えたに違いありません。例えるなら豊山町の野球少年たちがイチローから野球を教えてもらえるようなものでしょうか。学業と運動、強く・明るく・正しくの、昭和:城山健児 → 令和:城山っ子の原型は「上から強制されたわけではなく、義校生たちが自ら望んだ自然発生的な結果として」明治の義校時代から既にあったと記事主は解します。発表会の演劇で再現をすれば児童にも分かり易く150年前の歴史と校訓の由来が学べると思うのです。もちろん児童ひとり一人全員が主役です。

楽田村と米百俵の精神

当時の松山一族のパワーを見る思いがします。源泉は楽田の持つ高品質のコメのチカラであって、系譜を辿ると古墳の一族のパワーに行き当たるのです。詳細は省略しますが、楽田村時代の基金は犬山市に統合されても財団法人として存続しています。私の祖父(松山鶴吉の直系)も財団法人設立のために一生懸命奔走したと、叔母から聞いています。義校以来の伝統「施設の充実」は後の時代にも継承されました。昭和30年代40年代には、ミシン50台寄贈、オルガン50台寄贈、校内放送設備に、25mプール建設費補助等、地方の公立小学校にもかかわらず、施設の充実ぶりには目を見張るものがありました。基金の利息によるものです、この楽田村の先人のお金の使い方を小学生のときに先生はなぜ授業で教えてくれなかったのか?と思うと悔しくてなりません。身近にこんな素晴らしい、お金の使い方の教材があったのかとリアル米百俵です。カネは教育(人材投資)に使われたのです。この基金3億5000万円と山林は、法改正で存続困難となった平成24年まで独自財源として残り続け、体育館建て替えで有終となりました。古墳の一族から小学校の新体育館建設に至るまで、1700年間一本の系譜で繋がっているのです。楽田版「米百俵」も学芸会を通じて児童には勿論、父兄にも知ってもらいたいものです。

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永岡藩 小林虎三郎「米百俵の精神」より画像引用


楽田の「米百俵のカネの使い方」もそうですが、私の小学校在学中に、楽田小学校の歴史も聞いたことがありません。どうしても松山一族の属人性に行き当たるので、教育現場で教えることが難しいかもしれませんが、古墳時代から連綿とつながる郷土の歴史として、何らかの工夫をして語り継ぐことは必要ではないでしょうか。例えばですが清和源氏松山一族の発祥の地、兵庫県の三田(さんだ)市立三田小学校と姉妹校提携を結び、年1回の特別歴史授業をするなどは「あり」かもしれません。前述の通り、三田(さんだ)には松山一族の治水事業の跡で「松山の堰」がありました。写真の武庫川の対岸に巨大な堤があります。この治水事業は武田信玄の信玄堤よりも200年先駆けています。そんな松山弾正の一族の子孫が尾張の楽田に移り住み、日本全国でも先駆けた小学校を創った…三田小学校の皆様にもぜひ知って頂きたい歴史です。

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松山の堰につき、三田市文化協会様の公式ホームページより画像引用させて頂きました。
https://sandashibunka.grupo.jp/blog/5021524

以下は昭和22年、米軍空中写真を基にした、記事主の推定による加筆です。
松山の堰01.jpg写真を見る限り、蛇行の痕跡がある「暴れ河」であったことがわかります。何十年~百年に一度の豪雨、洪水のたびに流路が変わったのです。


閑話休題。私としては、1700年前も、南北朝時代も、今も変わらぬ平和でおだやかな田舎の楽田村が、1700年後も、3400年後の未来も、古代と変わらず美味しいコメを作り続けてほしいと願わずにはいられません。

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名鉄小牧線沿線「田県神社~楽田」.png

青塚古墳のガイダンス施設は、ほんとうに素晴らしい施設です。記事主個人としては「レストランを併設すればいいのに」と常々思います。楽田のコメを実際に来て、観て、味わってもらえば難しい説明よりも一発で美味い!古墳の一族が楽田を選ぶわけだ」なるほど、そうか、なるほど…そういうわけかと心の底から納得して頂けるでしょう。楽田で穫れた、ここでしか味わえない1700年伝統の究極のコメを、最も旨味の引き立つ薪炊飯で提供する。外国人観光客は、薪で炊飯の炎と伝統文化に見入り、あまりの美味しさに目の玉が飛び出るくらい驚いて、土産に5Kgと小型のジャパニーズ羽釜とセットに2万円で販売して飛ぶように売れるというのに。ちょっとした鎧の武者が小牧長久手の戦いの戦場の炊き出し(赤味噌ベース)のリアルな再現も欧米の人々に大ウケすると思うのです。…しかし、そんな事はけっして100%絶対にやらないのが楽田村の良いところでもあるのですが。(1000年期目線で物事を考える楽田の人々)

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画像引用:日テレニュース【大好評】“なんてウマいんだ!” ニューヨークの小学生に「おにぎり」配布 “日本のお米の良さ”アピール

本題に戻ります。…ちょっとだけ楽田城。

閑話休題。ここで冒頭の青塚古墳の寄進の話、「古墳が次々に消えていった時代の話」です。なぜ次々に倍塚が破却されたのかというと、現代風にいえば、換金率のいい金融商品になったのです。倍塚を破却して土壁にして売って、跡地は田んぼにして高品質の米を収穫すればが立ち、古墳の跡地には次から次に家が建てられました。古墳というのは地盤が頑丈に版築されているので、家を建てるには最適でもあります。そのようにして青塚古墳群が次々に破却されていきました。古墳が生き残るには厳しい時代だったのです。曾祖父は少年時代から青塚の倍塚が次々に消えて無くなるのを目撃していたはずです。大正5年の調査図でも「現存セザル塚」がすでに九つもあります。「せめて青塚古墳だけでも」と、私財を投げうって、遠い御先祖の墳墓たる青塚古墳を護り、地元の神社に託すことで未来永劫の保存を願ったと解します。

歴史の遺産は無くなるときは一瞬です。もう二度と元には戻りません。我が母校に楽田城の城山がありました。太閤秀吉の本陣にもなったお城ですが、私の小6の時に平地になってしまいました。運動場の真ん中に城山があっても、何の不便もありませんでした。誇らしい城山(城山古墳)でした。

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それにしても青塚古墳ですが、1700年以上もの長い年月、よく原型を留めて保存されています。手を加えたのは豊臣秀吉(配下の森長可。長可は森蘭丸の兄)くらいのものです。(小牧長久手の戦い)
現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。古代と中世、近代と現代が調和しすぎて「脳がバグる」美しさと、力強さです。それは地元青塚の集落の皆さん1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。青塚古墳は国の史跡に指定されていますが、本来なら青塚集落の皆様並びに先祖代々こそ、全員が国の史跡(人間史跡)なのです。(青塚の中の人たちは、こんなこと口が裂けても絶対に言いませんので、記事主が代わりに言いました)。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。

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写真は昭和時代の青塚古墳です。周辺には見守るように田畑と民家が並び、完璧な防犯体制が敷かれていました。墓荒らしなんて入る隙もありません。
小学生時代、学年全体で古墳見学をしましたが、どうしても古墳のふき石が剥がれて下の田んぼに落ちます。地元のばあさまが、そのつど、文句のひとつも言わず、地道にひとつひとつリアルタイムで修復するのです。あの光景も忘れられません。1700年以上奇麗に保存されるわけです。

記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。楽田城の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて古墳を訪れる事のできる最後の日でした。青塚や周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました)

青塚集落、畏るべし

平成初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の青年団と、支える家族の人たち総出で行われる一大イベントかつ、神事でした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。
楽田村は「集落あって村なし」です。個別の集落ひとつ一つが小さな村並みのコメの収穫量と、高品質による経済力とパワーと独立性を誇っていました。また過去200年に渡り尾張國最大の築造物が、ここ青塚集落に存在したという事実(郷土集落の誇り)も見逃せません。青塚古墳が素晴らしいとすれば、それは(1700年間に渡る日本一の縁の下の力持ち'the power behind the throne'を極めた)青塚の人々が素晴らしく、また自尊自立の力も並外れて強いのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。