愛知県 犬山市(旧楽田村)「青塚古墳群」と、曾祖父「松山鶴吉(松山忠左衛門)」のはなし。
さて本記事タイトル、愛知県犬山市、旧楽田(がくでん)村の、青塚古墳「群」ついて、公式HPから引用します。
■青塚古墳群
周辺にはかつて多数の小さな古墳があり,青塚古墳群を形成していたことがわかってます。現在は,わずかに数基が残っているだけです。(後略)
https://niwasato.net/aotsuka/kohun.html
さらっと、青塚古墳群を形成していたことがわかってます …と書いてありますが、なぜそれがわかるのでしょうか?
こちらをご覧ください。
「愛知県史跡名勝天然記念物調査報告 第八」によれば、大正5年の曾祖父の調査図が第一次資料になっています。これからも松山鶴吉氏の調査によれば…と、引用は続けられるでしょう。曾祖父は郷土史に名前を残したことになります。調査図は曾祖父が個人の資格と、個人で拠出した資金による発掘調査の折に作成されたものです。
ご本家当主の松山鶴吉は世襲名 松山忠左衛門を名乗った最後の人です。大正5年当時、青塚古墳は忠左さん個人所有の前方後円墳で、のちに尾張二宮の大縣神社さんに寄贈しました。
明治~大正当時は食糧難の時代でした。近代化と宅地開発、そして急激な人口増と米食率の増加によって食糧難は、より拍車がかかりました。そんな時代に曾祖父はなぜ寄贈を…
ここで少し余談です。愛知県最大級の古墳が、そもそもどうしてこんな片田舎たる楽田の地にあるのでしょうか? 答えはコメの品質です。青塚古墳のある旧楽田村で穫れる米は地形的に尾張の平野地域で最も美味いそうです。青塚古墳周辺の田んぼで獲れる米が美味い…これはどの考古学資料にも載っていませんし、学問の分野ではないので、これからも載ることはありません。
楽田より西の濃尾平野はかつては東海湖と呼ばれる巨大な湖でした。(※濃尾西部は陸化した湖底土のため凝集性や侵食抵抗性が極めて小さく、けっして肥沃とはいえませんが、それを逆手にとって地域の強みとし、養蚕業と繊維産業が大いに発達しました)
楽田の南側も東海湖の名残で名古屋城のすぐ北側まで湿地帯が広がっていました。(※この地域もまた、今では県内有数の航空宇宙産業の集積地として発展しています)
余談続きます。楽田は木曽川扇状地の粘土質かつ、里山が近くにあり水質が良くミネラルが豊富、台地の縁にあるため地下水脈も水量も豊富、比較的内陸部にあるため寒暖差もあります。楽田〜各務原の辺りは濃尾平野南部に比べて夏の昼間の平均気温が1℃高いそうです。風が吹きません。各務原飛行場・小牧飛行場があるくらい「風が穏やかな土地」なのです。記事主は現在名古屋市内在住ですが、若干楽田よりも涼しく感じます。ちなみに楽田も早朝に限っては里山が太陽光を遮り、冷涼で快適です。楽田の里山のおかげで朝の空気は冷やされ、米粒の中にデンプンがより多く蓄積され粘りや甘みの強いお米が育つと思われます。
…そのような寒暖差かつ、まとまった平地(楽田五千石)と、米作りの好条件がいくつも重なっていました。巨大古墳が存在するくらいです。古代の権力者も、おそらく大のコメ好きで、この米どころの楽田の肥沃な土地を気に入り、趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤としたのでしょう。
楽田のお米は南北朝時代以来、飛保の曼荼羅寺さんへの奉納米としても珍重されてきました。これは旧楽田村の松山一族の檀家しか知りません(笑)。お寺の他の檀家さんは現金かお米(ほぼ現金)のお布施のところ、楽田のお米だけは、コメが大幅に値上がりする前の、令和のつい最近まで、楽田だけが最後の最後までお寺の求めで米の奉納をしていたそうです。曼荼羅寺さんも太鼓判の、甘みがありもちもちとした食感で、冷めても美味しい、濃尾平野のココだけでしか採れない究極のお米です。江戸時代300年前の干拓事業発が多い他県のコメの名産地と比較すると、楽田の美味しいコメの歴史の重みは1700年です。1700年間旨いコメが作り続けられているところに凄みを覚えずにいられません。果たして他のコメの名産地は1000年後、1500年後も続けることができるのでしょうか?
松山家のご先祖様は楠木正成の家臣団。とんちの一休さんの時代、南北朝の戦いの余波で、ここ尾張の國 丹羽郡の地に根を張り、曼荼羅寺を菩提寺とした「丹羽十人衆」の一人ですが、なぜ松山家だけが曼荼羅寺から遠く離れた、里山に近い楽田を根拠地に決めたのか、疑問でした。以前は対北朝戦に備え、大楠公伝統の山岳ゲリラ戦の軍事戦略のために…?と解していましたが、まさか古代の古墳の一族と同じ理由「趣味嗜好と実益を兼ねて権力の基盤とした」だったなんて!…歴史は繰り返すものです。
※近隣村では、楽田村よりも山間部の旧今井村のコメのほうが、もっと旨いことを記しておきます(個人の感想です)。がしかし、古墳時代や、南北朝時代当時では山間部の耕地面積は限られていました。輸送手段のトラックなんてもちろんありません。平野部でこれだけの品質で、しかも纏まった実質五千石穫れるのは現実的に大きかったと解します。
私としては、1700年前も、南北朝時代も、今も変わらぬ平和でおだやかな田舎の楽田村が、1700年後も、3400年後の未来も、古代と変わらず美味しいコメを作り続けてほしいと願わずにはいられません。
青塚古墳のガイダンス施設ですが、記事主個人としては「なぜレストランを併設しないのか?」と言いたいところ。簡易的なものでいいのに。楽田で穫れた、ここでしか味わえない1700年伝統の究極のコメを、最も旨味の引き立つ薪炊飯で提供する。来て見て更に味わってもらう。外国人観光客は、薪で炊飯の炎と伝統文化に見入り、あまりの美味しさに目の玉が飛び出るくらい驚いて、土産に5Kgと小型のジャパニーズ羽釜とセットに2万円で販売して飛ぶように売れるというのに。ちょっとした鎧の武者が小牧長久手の戦いの戦場の炊き出し(赤味噌ベース)のリアルな再現も欧米の人々に大ウケすると思う。…しかし、そんな事はけっして100%絶対にやらないのが楽田村の良いところでもあるのですが。
画像引用:日テレニュース【大好評】“なんてウマいんだ!” ニューヨークの小学生に「おにぎり」配布 “日本のお米の良さ”アピール
閑話休題。現代風にいえば、換金率のいい金融商品になったのです。倍塚を破却して土壁にして売って、跡地は田んぼにして高品質の米を収穫すれば蔵が立ちました。そのようにして青塚古墳群の陪塚が次々に破却されていきました。古墳が生き残るには厳しい時代だったのです。曾祖父は私財を投げうって青塚古墳を護り、地元の神社に託すことで未来永劫の保存を願ったと解します。
歴史の遺産は無くなるときは一瞬です。もう二度と元には戻りません。我が母校に楽田城の城山がありました。太閤秀吉の本陣にもなったお城ですが、私の小6の時に平地になってしまいました。あの無念は忘れられません。
それにしても青塚古墳ですが、1700年以上もの長い年月、よく原型を留めて保存されています。手を加えたのは豊臣秀吉(配下の森長可。長可は森蘭丸の兄)くらいのものです。(小牧長久手の戦い)
現地を訪れた事のある方なら「何だこの美しさは?」と思わずにはいられません。古代と中世、近代と現代が調和しすぎて「脳がバグる」美しさです。それは地元青塚の集落の皆さんが1700年間先祖代々古墳を護り続けてくれたおかげなのです。私の同級生にも青塚集落の人が何人かいましたが、縁の下の力持ちを絵にかいたような、粘り強く地道な仕事も黙々と遂行する同級生たちでした。
写真は昭和時代の青塚古墳です。周辺には見守るように田畑と民家が並び、完璧な防犯体制が敷かれていました。墓荒らしなんて入る隙もありません。
小学生時代、学年全体で古墳見学をしましたが、どうしても古墳のふき石が剥がれて下の田んぼに落ちます。地元のばあさまが、そのつど、文句のひとつも言わず、地道にひとつひとつリアルタイムで修復するのです。あの光景も忘れられません。1700年以上奇麗に保存されるわけです。
記事を書いていると古い記憶が蘇ります。古墳見学の校外学習は風薫る5月、よく晴れた土曜日の午前の授業の時間枠全体を使って行われました。昭和の当時、土曜は半日授業です。楽田城の城山の前に6年生集合。振り返れば城山に見送られて古墳を訪れる事のできる最後の日でした。青塚や周辺集落の級友たちはランドセルを背負って、下校も兼ての見学です。青塚集落から楽田小学校まで徒歩1時間以上かかりますが、この見学の日だけは現地解散することができて、彼らにとって、小学校生活6年間のなかで唯一無二の、最良の下校の日だったと思います。(※最初は、1時間かけて古墳へ行って→1時間かけてまた学校に戻って→さらにまた1時間かけて下校の予定でしたが、あまりにも可哀そうということで、先生方の協議の結果、現地解散になりました)
閑話休題。平成の初期までは古墳の野焼きの風習がまだ残っていて何度もこの目で見ています。野焼きは青塚の集落の人たち総出で行われる一大イベントでした。もしも野焼きが無かりせば、他の多くの古墳同様、あっというまに雑木林になって美しさは失われます。1700年以上も前…応神天皇の時代(所謂倭の五王の時代)よりも昔から連綿と続いてきたのかと思うと、青塚集落先祖代々様には畏怖と畏敬の念を覚えずにはいられません。青塚古墳が素晴らしいとすれば、それは青塚の人々が素晴らしいのです。青塚古墳は鏡に映る人の姿、人々の生き様と解します。