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大縣神社奥宮の謎と、神宮寺と勝部廃寺の瓦

皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。

神宮寺の瓦は近場の登り窯で焼かれた
大縣神社の奥宮の荒魂は狗奴国の神だった
勝部廃寺の本殿は、狗奴国環濠集落にあった、巨大古墳後方部の居抜き物件だった

令和8年1月に、旧丹羽郡楽田村の大縣神社神宮寺跡の現地調査、勉強会に参加させて頂く機会がありました。
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現地調査は1月にも関わらず、天候に恵まれました。
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神宮寺跡を下から見上げたところです。ここから実際に山頂まで登っての調査です。途中平安時代、鎌倉時代の陶器の破片や、寺院の瓦の破片を採集することができました。なんでもイノシシが穴を掘ると、新たに出てくるそうです(笑)

神宮寺の瓦

大縣神社(おおあがたじんじゃ)には、かつて神仏習合の時代に神宮寺(じんぐうじ)が存在していて、供僧(ぐそう)が御奉仕されていたそうです。明治の廃仏毀釈によって廃絶されました。 

神宮寺.jpg

そこで話題にのぼったのが、原材料の粘土は扇状地で豊富に採れるとしても、いったい瓦はどこで焼かれたのか?という疑問です。
瓦は重量物であるため、可能な限り寺院の近くで粘土が採取でき、かつ燃料となる薪が手に入る丘陵地に窯を築くことが一般的でした。たとえば斑鳩・三井(みい)瓦窯跡から法隆寺までの距離は、約1.7kmです。

IMG_0443.jpg(記事の趣旨には逸れますが、大縣神社の大鳥居の前に前方後円墳の痕跡があります。大縣神宮寺(おおあがた-じんぐうじ)古墳と命名します。大昔に大縣神社に参拝した人々は、古墳の後円部の坂に設置された階段を「えいやっ!」と登ったのかもしれませんね。)

古代の大縣神社の想像図.jpg
※前方後円墳が現存していた時代の大縣さん西正面の想像図を、Googleジェミニさんに作成してもらいました。

楽田の登り窯

閑話休題。登り窯につき、記事主も、周囲2~3Kmを昭和36年の国土地理院空中写真で探してみたところ、それらしき雰囲気のものがありました。おそらく奈良時代当時はこのような地形で瓦が焼かれたのではないかと想像します。
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令和現在の空中写真と、Googlemap画像です。
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平安時代末期の東大寺再建の際には、20基以上の瓦を生産した窯が存在したと想定されています。神宮寺建設の際も、一箇所だけではなく、5~6カ所はあったはずで、その中のひとつが令和にも現存しているとすれば、歴史のロマンがあっていいと思います。※なお、もちろん私有地なので立ち入ることはできません。

蓮池登り窯.jpg

奥宮の荒魂

大縣神社の本宮山に鎮座する社の荒魂(あらみたま)につき、冒頭で記事主は「狗奴国の神」と結論付けました。というのはこの楽田村近辺の古墳を記事主が調査したところ、大和系の前方後円墳と、狗奴国系の前方後方墳がせめぎ合う地域ということが分かったのです。https://www.rescue-119.jp/news/archives/1784

大和朝廷と狗奴國.jpg青塚古墳の倍塚と思われていた周囲の古墳群も、残らず全て前方後方墳で、長塚の西側から現・工業団地にかけては狗奴国の巨大環濠集落および、600m級の巨大古墳も発見することができました。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810

楽田羽黒遺跡.jpg
大縣神社奥宮の南西の奥宮古墳群と、蓮池古墳群も、全て狗奴国系の古墳です。
奥宮古墳群.jpg
蓮池古墳群.png
蓮池古墳群
​ 昭和52年国土地理院空中写真および、特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク様HPより画像引用
https://niwasato.net/home/archives/7336/

以上の理由で、この地域は元々は狗奴国であって、滅びたのちに大和朝廷の神々が、大縣神社に御鎮座。狗奴国の神々は奥宮の御社に荒魂として祀られたのではないでしょうか。なぜなら出雲大社にもみられるように、大和朝廷は古くからの土地の神を完全には滅ぼさずに温存します。余談ですが、出雲大社のさらに前の土地の神様も温存されていますので、大和朝廷というよりも、日本人の知恵としたほうがいいかもしれません。

大縣神社の参道がなぜ西に向かってまっすぐ伸びているのか、古代の太陽信仰なのか。夏至冬至の関係は、その直線上にある青塚古墳、壬申の乱の頃の尾張豪族と皇室との繋がり、天照大神と伊勢神宮の関係…
大縣神社のお札を納めるエリアの奥、立ち入り禁止の区域に「この奥に伊勢神宮を望む社あり」の立て看板がありますが、狗奴国と大和朝廷とのせめぎ合いの結果、奥宮という小さな御社に封印された荒御魂の「伊勢神宮の神々にも匹敵する巨大かつ強大さ」を考えると、すべては一本の線で繋がってくるのです。

勝部廃寺

大縣神社神宮寺跡の現地調査、勉強会の折、勝部廃寺についても話題になりました。先生方から聞いた話によると、工業団地には奈良時代~鎌倉時代に勝部(かちべ)廃寺があったということです。どうして工業団地の辺りに大規模寺院が?と疑問に思いましたが、狗奴國の環濠集落・600m級の巨大古墳があったとすれば納得ができます。「石山本願寺→大阪城」「江戸城→皇居」のような超が付くほど優良居ぬき物件だったというわけです。平安時代において仏教寺院建築は権威権力の象徴でもあったのです。そしてこの近辺は狗奴国の隆盛を支える基盤となる程に豊かな土地でした。勝部廃寺.jpg勝部廃寺の場所がやや不明とされていますが、昭和32年の国土地理院空中写真で検証すると、上舞台大塚古墳後方部跡にあったのかもしれません。強固な地盤により巨大建築の重量を支えるのに適し、自然災害にも強い場所だからです。記事主なら迷わず、ここを選びます。(たとえば石山本願寺の本堂があった場所ですが、豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸付近、特に現在の大阪城本丸にある金明水井戸屋形や天守閣の南側一帯と推定されています。本堂→本丸。逆もまた然りです。)

近辺の地名に残る「上舞台」ですが、こうして空中写真で確認してみると、土地が舞台状になっていることわかります。11世紀の「末法思想」の流行を背景に、極楽浄土を現世に再現するような建築様式が好まれました。 阿弥陀池と御本堂も、きっとそのような景観だったことでしょう。

上舞台大塚古墳01.jpg上舞台大塚古墳02.jpg上舞台大塚古墳03.jpg

勝部廃寺につき、後方部に存在したと思われるのはあくまで御本堂であって、(出土物から)敷地は広範囲にわたっていたと考えられます。
(そして勝部廃寺の瓦の一部は官林瓦窯跡で焼かれたとされますが、多くは神宮寺と同じ、楽田の登り窯で焼かれたのかもしれませんね)

  • Category:歴史
  • Author:shuccho-shaken