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豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、最大112mの巨大古墳群発見。旧楽田村は東日本最大の古墳密集地

 

皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
織田信長の所有権を経て、小牧長久手の戦い太閤秀吉の本陣にもなり、徳川家康と対峙した、

楽田城址、愛知県の「犬山市立楽田小学校」周辺には城山古墳群があった
楽田城は複数の巨大古墳を切り崩し築造された。
東日本で最大の古墳密集地は楽田村

以上のように、この記事では結論付けます。(なお古墳群の存在を実証するためには、発掘等の費用等数十億円を個人で捻出する必要があり、行政および地権者の許可を得なければなりませんので考古学的証明は事実上不可能といえることを、予め記載しておきます)

城山古墳群.jpggemini再現図01.png
google Geminiによる古墳時代当時の再現図

楽田村4大古墳群.png

発見の経緯

記事主は以前より、まるで大阪城真田丸のような出城、楽田城小城址が気になっていました。別記事での検証中、境界に実線を引いたことで、青塚古墳によく似た前方後円墳と気が付き、そして国土地理院の昭和22~36年の空中写真で周辺をよく見ると、驚くほど多くの前方後円墳の痕跡と、唯一の現存する前方後円墳を発見するに至りました。

https://www.rescue-119.jp/admin/blog/blog_posts/edit/1/1751

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丹羽郡樂田村古城之圖.png

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IMG_9201.jpeg実際に現地へ行くと、画像の通り、奥から手前に緩やかに傾斜していることがわかります。


次に楽田城小城址の旧陸軍撮影の空中写真です。お城の北側にうっすらと小城が確認できます。楽田城址および、小城が空撮された、最古の写真と思われます。
IMG_9287.jpeg記事主のご本家の方から聞いた話によりますと、当時は昼なお暗き鬱蒼とした森のようなところだったそうです。お城から裏ノ門へと続く森と森のに、道が通っていることがわかります。

IMG_9288.jpeg

昭和36年国土地理院撮影の空中写真です。土地の境界まではっきりわかります。
IMG_9289.jpeg

現在のGooglemapで境界に実線を引くと解りますが、この通り、あきらかに前方後円墳です。後円部の南側が道路境界として残っています。小城址は、織田方が古墳の前方部を平らに削り出したもので、傾斜は古墳時代の名残だったのです。
IMG_9320.jpeg

楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。楽田城址との対比.jpggemini.png
google Geminiによる再現図

水路@土地境界.jpgIMG_9319.jpeg後円部水路.png


青塚古墳の周りには、かつて倍塚が沢山あり、青塚古墳群を形成していたことは、記事主の曾祖父が調査図を後世に残してくれてわかっていますが、円墳のなかに前方後円墳がポツンと一つだけで、その理由につき疑問に思っていました。どうして前方後円墳は一基のみなのかと。(まさかお城の北側にあったとは!)
松山鶴吉調査の図.png

なお便宜上、城山古墳群につき、第0号墳~第14号墳と呼称します。全て前方後円墳です。
城山古墳群.jpg

断夫山古墳(熱田区):墳丘長約150メートル
青塚古墳楽田村):墳丘長123メートル
城山第1号墳楽田村):墳丘長約112メートル
白鳥塚古墳(守山区):墳丘長約110メートル
城山第2号墳楽田村):墳丘長約100メートル
二子山古墳(春日井市):墳丘長約95メートル
……
城山古墳楽田村):墳丘長約70〜80メートル
城山第0号墳楽田村):墳丘長約60〜70メートル

gemini再現図01.png
google Geminiによる古墳時代当時の再現図

古墳跡地では、古代と現代が交差する

第3号墳、第4号墳跡は記事主の通学路の途中にありました。本来は丸い敷地外周の公道を通っていましたが、小学生の頃は初中お屋敷の私道も通らせて頂いていました。の頭を撫でて、屋敷林の横を通り抜けるのがルーティーンでしたが、不思議で独特な雰囲気が抜群に良かったのです。実は古墳の痕跡だったと知ると、納得できるものがあります。この地域の古墳の跡地は、古墳時代の境界が現存しており、なんだか異空間の趣が漂うのです。第2号墳.jpg

第3号墳跡の西の入り口は、まるで人が吸い込まれるようでした。(イメージ画像)真夏の西日を遮り、真冬の伊吹下ろしを緩和する、人にやさしい屋敷林だったと思います。
屋敷林.png

第1号墳は古墳群最大の112mの後期型古墳です。後期古墳型の特徴として前方部が高く、城址の西側がより急坂なのは、その名残です。昭和の当時は必要最低限の境界補強のみで、古墳の雰囲気が残っていました。
後円部にあった校舎裏の宿直室ですが「学校の怪談」もあって、無茶苦茶怖かった記憶があります。こうして昭和36年の空中写真で確認すると、第2号墳の昼なお暗き森がすぐ北側にあり、怪談の舞台になるのもわかる気がします。
第1号墳.png
学校の宿直室は、夜間に一人で過ごすためか、足音や物音、人影などの怪現象が起こりやすい場所の定番です。楽田小学校の怪談は、宿直の先生が霊的なものに襲われ取り殺されてしまうという、小学一年生の私や級友たちにとっては、それはもう恐ろしい話だったと記憶しています。

ただ実際は、宿直の担任の先生の陣中見舞いに、近所の本郷の児童が、差し入れを持った親と一緒に大勢でわらわらと遊びに行って、先生と生徒、親同士も交流できたという大らかな時代だったようです。
学校の宿直室.png
X まるえつ様の投稿より画像引用 https://x.com/maruetu_daze/status/716636051616321536/photo/1

※地元本郷集落の児童が、わらわらと先生のところに遊びに行く習慣は、宿直制度のなくなった記事主の少年時代にも、集落の記憶なのか(形を変えて)若干残っていました。私自身も二度参加しています。あれは無茶苦茶楽しい思い出です。戦前から昭和30年代の頃も、それはソレハ楽しかったと思います。
なお学校の宿日直は明治期に教育勅語や御真影を守るために始まり、戦後は学校の火災や盗難などを防いだり、地元の人々との連絡や調整などのために続けられてきましたが、昭和40年代に廃止になりました。


令和現在の第5号墳跡です。墳形が土地境界の形で、奇麗に残っています。特に前方部・後円部の西側の水路が、前方後円墳そのものです。ということは4号墳の辺りは、楽田村史「楽田城平面図」では不思議な形で突出したですが、実際には北東の堤防の役割を果たしていたことになります。水没するほど地表を削り取っては、境界の痕跡が残らないと思うからです。少年時代はよく前を通っていましたが、実際、土地は小高い丘のようになっています。2号墳.jpg掘割.png

第6号墳跡は令和現在のほうが、境界痕跡がわかりやすいです。後円部があったところには、戦前のものと思われる建屋に書道教室があって、そのむかし記事主も通っていました。独特の雰囲気のある空間でした。
第4号墳.jpg

第10号墳跡は円墳か、帆立型前方後円墳か、難しいところですが、昭和57年の空中写真で帆立型前方後円墳と結論しました。私が書道教室に通っていた頃は畑だったと思いますが、なぜこうした閉鎖空間に畑なんだろう?と若干不思議な場所でした。第7号墳跡・第8号墳跡も痕跡から同様に帆立型とみます。志段味の古墳の一族と、婚姻関係があったのかもしれません。第10号墳.jpg

現在の第10号墳跡です。なんとなく古墳時代の面影が残っています。点線の2カ所にも、古墳があるかもしれません。境界(道、水路)が弧状です。(画像下:城山第9号墳)(画像上:城山第11号墳
第5号墳.jpg

…あるかもしれないと思ってGooglemapで見てみると、第9号墳は普通にそこにありました。まるで斑鳩の法隆寺の駐車場の植込みのように、日常に溶け込んでいます。言われてみないと、これが前方後円墳とは、わかりません。第6号墳.jpg

楽田は「尾張國の斑鳩」

曲輪、道、そして古墳も、昔から楽田村にあった普通の神社であり、普通の土地境界です。考古学的には発見ではありません。類例では令和4年に「法隆寺の駐車場にある植え込みが、実は古墳」という発見がありましたが、分類上はそれ(学術調査前の植込み)に近いと思います。特に第9号墳はそうです。

法隆寺の植込み.jpg

第12号墳跡も昭和23年の画像を見ると、前方後円墳の起伏と境界が確認できました。すぐ南側に第11号墳の起伏も見つけることができました。両墳共に昭和30年までに境界は消滅していますが、墳丘長敷地は痕跡として今も残っています。
第11号墳.png第11_12号墳.jpg

第13号墳跡と第14号墳跡は昭和57年の空中写真に、比較的わかりやすく境界を確認することができました。
第11号墳.jpg

第13号墳.jpg

楽田の本郷集落のこの近辺ですが、1700年前の古墳時代の「境界」が物理的な遺構と共に明確に残っている例として、まことに希少な地域といえるのではないでしょうか。現存する古代の境界.jpg古代の境界.png

1000年後、古墳は土塁になった

さて、城山古墳群ですが、何故ほとんど消滅してしまったのか記事主は考えました。お城築城の際に土塁として、全て転用されてしまったのではないかと。土塁の大きさが今一つわかりませんので、同じ個所を撮影した後年の画像と比較してみます。けっこう巨大です。城址をほぼ一周する分量が必要ということで、手っ取り早く近くの古墳群を切り崩したと思われます。逆に言いますとこれは古代から戦国時代までの、1000年間、地元本郷の先祖代々「板津さん」「梅村さん」「服部さん」たちが、古墳群を大切に護ってきたことを証明しています。
お城の土塁.png

戦国時代よりも以前の楽田城は、3基の前方後円墳

そもそも楽田城ですが、何故あんなに平らになっているのか疑問です。記事主は第1号墳と、城山古墳、さらにもうひとつ城山古墳の東側に「第0号墳」があったはずで、それら3つを潰して平らにして造られたものと考えています。何もないところから、一からお城を作るよりも、既存の古墳を改修する方が効率的だからです。河内の畠山氏が高屋築山古墳を利用して造った高屋城が、その代表格ですが、3基の巨外古墳を潰した築城…もっといえば更に10基以上の古墳も潰して土塁にし、合計15基の古墳から成るのは日本で楽田城だけと思われます。なぜならベースとなる楽田城段丘の地質が周囲の平地と全く変わりないからです。

地質.png

濃尾平野には「ポツンと段丘」が楽田城の他に、岩崎山小牧山がありますが、それぞれ花崗岩チャートです。楽田城段丘状たる地質学的必然性が不明で、巨大古墳を基にした人工築造物と結論付けます。

名古屋空港.JPG
※名古屋空港(旧小牧陸軍飛行場が造成される以前には岡山佛鬼山という標高二十メートルの段丘があったのですが、やはり花崗岩か、もしくはチャートの地質と思われます。

城山古墳.jpg

しかし、これら基本中の基本を、なぜ一庶民の私、素人の記事主が考察しないといけないのか哀しくなります。学者、歴史家はもちろん、地元楽田の人も殆ど誰一人として、国内第三の巨大古墳群三英傑に関わる御城や、その曲輪や古道、勝部の桝形の成り立ちに興味が無く、忘れ去られようとしているのです。青塚古墳群の調査図を後世に残した記事主の曾祖父、松山鶴吉(世襲名、松山忠左衛門)の気持ちがわかるような気がします。おそらく学者、歴史家はもちろん、地元楽田村の人も誰一人として青塚古墳群を、大正5年当時は見向きもしなかったのでしょう。

松山鶴吉調査の図.png

勝部の桝形.jpg

現在の道.jpg

この記事を読んで頂いてた皆さまは、疑問に思ったはずです。「百舌鳥・古市古墳群、久津川古墳群に次ぐ、国内第三の規模の古墳群が、小さな旧村にあるなんて聞いたことが無い」「もしもそんな古墳群の村が実在しているなら世界遺産暫定リスト(Tentative List)入りだ(笑)」「空白の4世紀の解明に影響がでるレベルでしょう?」「16基の古墳を潰した?楽田城の学術調査は?」…残念ながらそれら全ての基礎となる楽田城の学術調査は、有史以来一度もされたことがありません。調査が継続する徳川家康の小牧山と対照的です。小牧長久手の戦いで敗北し、学術調査でも遺構の再現でも小牧山に敗北する…これが敗者の悲哀というものでしょうか。戦いというのは絶対に勝たなければ駄目と、つくづく思います。

人々が敗者から離れていくのは世の定めです。もしも豊臣方が勝利していれば、勝者の城として、周辺調査も格段に進んでいるでしょうに。でも大丈夫、楽田城!古墳群!ほかの誰も見向きもしなくても記事主だけは、あなたたちの味方です。私個人ができる範囲のことをやって、伝わるようにしておきます。おそらく記事主の死後、そうですねえ…西暦2100年くらいに当記事の内容も、ぼちぼち評価され始めると予想します。測量方法と技術のイノベーション・低価格化と、その頃の日本が大きく変化する反動として。

古墳の命名について

断夫山古墳が造られるまでの200年間の長きに渡り、尾張國で最大級の人工築造物は楽田の複数の巨大古墳でした。次世代に繋げるためにも、いつの日か、22世紀の楽田小学校の児童のみなさんで各古墳の命名してくれる日がくることを願います。

未来への遺産.png藤子・F・不二雄先生「 ドラえもん」のび太もたまには考える小学六年生 1983年3月号/大全集10巻より、画像引用