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楽田城の曲輪と忍者道に隠された空白の四世紀。織田家と豊臣秀吉の業務効率化が神業すぎて1800年間不明だった、狗奴国の遺構と政治的中心地が判明。邪馬台国は畿内に比定


みなさんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から先に書きます。

①楽田城の遠見の曲輪と、桝形
狗奴国の前方後方墳の居抜き物件で、
②楽田城の北の曲輪
狗奴国の前方後方墳の居抜き物件。
③遠見の曲輪からお城に至る忍者道の一部は
狗奴国の前方後方墳境界
楽田城自体も狗奴国の環濠集落の居抜き物件だった

※なお上記は、この記事の結論です。考古学的証明ではなく、記事主の個人的見解に過ぎません。
※また、お時間の無い方は直接次の記事にJUMPして頂いても大丈夫です。当記事の続きになっています。

豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、巨大古墳群発見
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1784

狗奴国首長墳発見
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810

三英傑.jpg

遠見の曲輪(とおみのくるわ)

さて、戦国時代のお城の周辺には、その巨大さ故に必ず痕跡が残っています。楽田城も例外ではありません。お城から少し離れた街道筋に集落のお天王様がありますが、記事主が見る限り、物見櫓があった遠見の曲輪(くるわ)」にしか見えません。曲輪となれば、織田・豊臣・徳川と、三英傑に関わる貴重な遺構になりますが、日常の中に埋没して誰も指摘しないので、元地元民の私が記事にした次第です。(集落は異なりますが、お天王様から実家まで300mありません)
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【古代】前方後方墳→【戦国期】桝形・曲輪→【現代】歩道橋・お天王様

織田家・旧尾張領内で街道脇の、しかもお城から独立した戦国時代の曲輪の遺構というのは、ここ旧楽田村にしか現存しないと思われますが、旧国道建設により東半分は失われ、歩道橋設置により、必要最小限ですが、やや削られています。私が呼ぶところの曲輪は、あくまで地元の大切な「お天王様」ですが、三英傑にかかわる遺構となれば、これは凄いことです。全国でも数えるほどしかない三英傑の遺構のひとつといえます。集落の誇り以外の何ものでもありませんが、今後とも発掘調査等は棚上げして、歴史の痕跡をこのまま地元の方々にお任せして、遠くからそっと見守り続けるのが大前提と記事主は思います。
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曲輪の監視する木曽街道上には戦国時代には桝形(勝部の桝形が設けられており、曲輪と連携して防御態勢が敷かれていました。曲輪はちょうど桝形の要(かなめ)の位置にあり、南北に睨みを利かせていることが分かります。
勝部の桝形.jpg
大正九年作成の国土地理院 2万5千分1 地図

勝部の桝形は現存していますが、地元楽田の人もほとんど知らないと思います。この素晴らしい地域の遺産を、日常の中に埋没して忘れ去られてしまうのは忍びありません。お隣の小牧の桝形のように、HPによる周知や、お天王様に説明版があるといいように思います。https://www.city.komaki.aichi.jp/admin/soshiki/kyoiku/bunkazai/1_1/2/bunkazai/shiteibunkazai/4/8/9610.html
現在の道.jpg

織田家の御家芸「業務効率化」

その遠見の曲輪ですが、記事冒頭の結論通り、元々は狗奴国系の前方後方墳です。(その証拠として、すぐ近くに狗奴国の巨大環濠集落も発見することができました)。なぜ、この場所に桝形と曲輪があるのか…ちゃんと意味がありました。桝形・曲輪として織田家が再利用したものだったのです。私たち尾張の人間にはこの感覚が非常によく理解できます。地道かつ合理的な業務効率化・業務改善による短工期化は、今もこの地域全体に受け継がれているからです。余談になりますが、織田信長もまた、支配地域を広げる過程で、清洲城(旧斯波氏居城)、小牧山城(間々観音)や岐阜城(齋藤氏の稲葉山城)といった既存の城郭・寺院はもちろん、齋藤道三の楽市楽座というソフトウェアをも改修・拡張して利用しました。これは、全く新しい場所・制度につき、ゼロから築城・構築するよりも効率的だったからと考えられます。
勝部桝形古墳02.jpg勝部桝形古墳01.png

狗奴国の前方後方墳とは?

ヤマトの左右対称の幾何学的な前方後円墳を見慣れた私たちにとって、この黄枠の墳形には違和感を感じます。現存する狗奴国の古墳がありますので、まずはご覧ください。

長塚古墳01.png

遠見の曲輪から、1.5Km離れたところにある長塚古墳です。付近の地名長塚に由来する、記事主による命名です。地元の楽田の人々の記憶からも忘れ去られ、今にも消えようとしています。近辺には同形の前方後方墳コマ塚)の痕跡が多数あり、長塚古墳群を形成しています。勝部桝形古墳も古代から中世はこのような墳形が残っていたのです。後方部の墳丘の一部が織田家によって活用され、集落の先祖代々による保存によって、遺構は生き残ることができました。

中世勝部桝形古墳.png


さて、織田家が古墳跡に曲輪を置いた理由ですが、
①軍事拠点としての防御の他に、
②櫓の礎石(裏込め石、築石、栗石)等を固めることで、
③石垣による柔軟性と重力分散効果、
④かつ適切な排水性も確保し、
⑤地震にも対応できるような、
3D構造による、長期間の安定を担保することにあったと解します。
現在も歩道橋の基礎のひとつが、お天王様に据え付けられていることは、②~⑤の理由により非常に理に適った合理的なものといえます。曲輪は今も昔も遠見の構造物を支える、縁の下の力持ちの役割を立派に果たしているのです。
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楽田城近辺の織田家の軍事遺構に木ノ下城がありますが、やはり3D構造となっています。こちらも境内境界から判断すると、古墳の居抜き物件の可能性が大ですが、犬山(稲置村)は記事主の守備範囲外ですので、これ以上触れることはしません。犬山城築城に伴い、木ノ下城は廃城。現在は愛宕神社になっています。
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平城(ひらじろ)は防備が難しい

さて、曲輪の上には、おそらく画像↓のような雰囲気の物見櫓があったと思われます。画像引用:Wikipedia「西尾市の東条城物見櫓」
楽田城は「天守「内堀」「外堀」「土塁」「北の曲輪」「遠見の曲輪」「勝部の桝形」と、幾重ものセキュリティシステムが施されていたことになります。※「内堀」の一部は城山の東隣に昭和51年まで現存していました。
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こちらが、お城の北の曲輪です。やはり遠見の曲輪と同じく、古墳の居抜き物件です。
IMG_9135.jpegIMG_9201.jpeg北の曲輪の奥から手前にかけて、緩やかに傾斜しています。この傾斜も遥か昔、古墳時代の痕跡でもあるのです。

その北の曲輪(小城)の位置につき、楽田村史の略図と丹羽郡樂田村古城之圖を、空中写真で確認します。
IMG_9290.jpeg丹羽郡樂田村古城之圖.png

樂田城眞田丸古墳.jpg墳形につき、昭和23年の米軍空中写真で確認すると、前方後方墳です。楽田城址(小学校)と比較すると、巨大古墳であることがわかります。楽田小学校は狗奴国時代の環濠集落であり、多くのコマ塚が存在し、城山古墳群を形成していることもわかりました。記事容量の関係で、楽田城が環濠集落の疎明と共に、別記事にまとめておきました。城山古墳群02.jpg城山古墳群01.png

豊臣秀吉の本陣「楽田城」と、その周辺において、巨大古墳群発見 https://www.rescue-119.jp/news/archives/17841818

平成初期まで一部現存していた戦国時代の道

さて、曲輪に物見櫓があるからには、お城へ最短距離で結ばれ、急ぎ駆けつける「忍者道」もあるはずです。昭和14年の愛知県丹羽郡楽田村土地宝典で確認してみます。
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令和時代の地図で検証してみましょう。
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青い点線部分の道が失われているようですが、航空写真で見てみます。
IMG_9062.jpegIMG_9063.jpeg赤丸部分の500年以上前の道の遺構が、土地境界として残っている事も、画像検証でわかります。記事主の少年時代には道そのものが残っていました。1~2尺ほど高低差のある、畔道としては妙に立派な黒土の造りだったと記憶しています。「ここの畦道だけ、何故こんなに立派なんだろう?」と心の片隅にありましたが、まさかこれが戦国時代の道の一部とは、思いもしませんでした。戦国の道で遊んでいたなんて、今にして思えば贅沢な少年時代でした。

道のイメージ.png
イメージとしてはこんな感じです。道幅はもっと狭く半分くらいの、粘土質のしっかりした黒土で、左が塀、右が苺畑でした。少年時代に実際に歩いた道は、地中の丸石や砂利がクッションとなって、それはそれは歩きやすい優しい道でした。

国土地理院「昭和52年の航空写真」の田圃(青田)にも道筋の痕跡が残っています。道だった個所は「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法が使われているはずで、廃道から数十年を経ても、稲の根の発育に影響がでているとおもわれます。
国土地理院航空写真.png

また、緑の丸の空き地ですが、やはり道だった箇所だけ草の生え方等が微妙に異なっているはずです。周りに比べて背丈の低い草が多いと思われます。航空写真でも色が違います。

農林水産省が提供する「eMAFF農地ナビ」を利用し確認してみます。道だった場所にが表れています。草の背丈が異なるようです。
「eMAFF農地ナビ」.png


追記。赤丸の境界部分は高低差も昔のまま残っていました。印が当時の道があったところです。
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航空写真で緑丸の空き地にも「道はありそう」でしたが、現地調査をしてみて、道の痕跡が残っており、正直びっくりしました。前述の通り「砂利と丸石を地中に敷き詰め、その上に砂をかぶせて踏み固める」という工法によって、ススキのような背の高い植物・他が、うまく根を張ることができないようです。80年以上前というのに、その土地の、その道の記憶というものは残り続けるのですね。
IMG_9168.jpegIMG_9090.jpeg敷地奥と、手前の道の痕跡部分では、草の生え方に違いがあって、興味深いものがあります。※やはり今の世の中、地元の人以外が立ち入ると通報されるご時世ですのでご注意ください。…まあ入ったところで何も面白くないのですが。


しかし、この道。みれば見るほど忍者道です。今にも忍者が向こうから駆けてきそうです。
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道を昭和23年の米軍空中写真で確認したところ、前方後方墳境界の痕跡らしきものを発見しました。
若宮コマ塚古墳01.png
若宮コマ塚古墳02.jpg
地名の若宮と前方後方墳の□□の形状から、若宮コマ塚古墳とします。古墳だったとすれば、この道だけ他と違って、どうして斜めになっているのか、長年の疑問がとけました。忍者道のルーツを遡ると実は古代狗奴国の痕跡だったなんて、なかなか歴史のロマンがあっていいと記事主は思います。


戦国時代が体感できる櫓・道・お城

さて遠くから楽田城へお越しの際には、お城跡に向かう前に、曲輪から歩道橋に上って北の方を眺めてみてください。「美濃勢」を日々監視した、尾張國織田家の先人たちの思いが甦るはずです。歩道橋という物見櫓で北方を見ると、美濃の山々が目視できます。国境は意外に近いのです。(南を向けば徳川家康本陣、小牧山も一望できます)。
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ふと目を瞑ると齋藤勢が立浪の旗を押し立て、尾張織田領内に押し寄せてくるのが見えてこないでしょうか?(見えましたね)
急ぎ北の曲輪、楽田城へ掛けつけるテイで、お城まで細い路地を歩いてみてください。忍者道はもう通れませんが稲木街道で行くことができます。
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道中は当時、右も左もほぼ全て田圃です。田圃の真ん中を突き進むイメージで。昭和時代までは宅地化も半分程度でした。
昔の航空写真.png

そうこうしていると、お城に着きます。画像は現在の城山城址石碑と同じ場所で、坂道の勾配と大楠は変わりません。城下のお堀の跡地は画像の通り、当時田圃でした。現在は埋め立てられて住宅地になっていますが、水路は戦国時代のままの低いところを流れています。
城山健児.png
※土塁の際に引用したものと同じ画像です。左から右一直線に、田圃の真ん中を横切っているのは水路で、今も全く同じ場所、同じ高さを流れています。(白矢印)

戦国期と同じ水位.jpg

昭和57年までは城山も辛うじて現存していました。
楽田城址遠景.png


令和の今も残る楽田城の痕跡

まとめです。かけがえのない楽田城の歴史の遺産が増えました。
①物狂峠
②青塚砦跡
③伝移築門
北の曲輪(須賀神社)は城山古墳群のひとつと判明←NEW!!
⑤城址の高低差と、城周のお堀の跡
⑥南門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑦北之門石碑から、お城に至る道の痕跡
⑧裏門跡石碑から、お城に至る道の痕跡
⑨砦跡(内久保の三明神社)と内久保の一族の伝承
遠見の曲輪勝部の桝形、お城に至る忍者道の痕跡と、若宮コマ塚古墳NEW!!
⑪楽田城址(城山古墳)と、本郷環濠集落NEW!!