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皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
魏志倭人伝に登場する狗奴國の首長墳は尾張國の旧樂田村、羽黒村にありました。
まず目を見張るのが大きさです。前方後方墳で日本最大は、奈良県天理市の西山古墳190mが最大とされてきましたが、墳丘長はその倍以上に達します。
前方後円墳を含めても、仁徳天皇陵、応神天皇陵に次ぐ、全国で3番目の大きさになります。
日本古墳ランキング(全長)
①大山古墳(大仙陵古墳/仁徳天皇陵) 約525m(大阪府堺市)
②誉田御廟山古墳(誉田山古墳) 約425m(大阪府羽曳野市)
③三ツ塚大塚古墳(狗奴國首長墳) 約390m(愛知県旧樂田村・羽黒村)
④上石津ミサンザイ古墳(石津ヶ丘古墳) 約365m(大阪府堺市)
⑤造山古墳 - 約350m(岡山県岡山市)
⑥河内大塚山古墳 - 約335m(大阪府松原市・羽曳野市)
墳丘は完全に削平されています。同じく削平された巨大古墳として、令和7年3月1日、奈良市の佐紀古墳群で、平城京造営の際に削平されたとみられる全長約200メートルの巨大前方後円墳の痕跡が見つかったと奈良市が発表しました。

よんななニュースさま記事より画像引用
https://www.nara-np.co.jp/news/20250302212143.html
奈良市の村瀬陸学芸員によれば「完全に消滅した全長200メートルもの古墳が見つかるのは全国初」としますが、390mの古墳消滅はそれを上回ります。狗奴国が滅びたか否かは、空白の四世紀のため、主に「滅亡・吸収説」と「存続・発展説」に分かれ確定していませんが、墳丘は完全に削平されていることから、邪馬台国と抗争し、滅亡したとみるのが自然と、この記事では結論付けます。

愛知県の楽田村近辺は、百舌鳥・古市古墳群に次ぐ、国内2番目の規模の古墳密集地と記事主は解しています。例えば小牧長久手の戦いで、太閤秀吉の本陣にもなった楽田城の周囲には20基以上の前方後円墳が密集しています。(※記事主の個人的見解です)

そのうち三ツ塚・長塚古墳群(上舞台古墳群)の、楽田長塚に現存する長塚古墳を見たとき、大和朝廷の古墳との異質・異文化・異形態な様に衝撃を受けました。

視点を西の方に移し、昭和50年の国土地理院空中写真で確認したところ、発見に至った次第です。後方部の大きさが、隣の中学校(記事主の母校です)の敷地とほぼ同じ面積ということが、おわかり頂けると思います。


国土地理院陰影起伏図
地名から考えて、巨大古墳が複数、近辺にあるはずです。
…ありました。
ところで追分古墳ですが、記事主の中学の通学路でした。まさか三年間通っていた追分の道筋が狗奴国の巨大古墳の前方部だったなんて!

前方後方墳の前方部が、きれいに追分になっている事例は検索しても出てきませんので、日本で唯一ここだけかもしれません。
狗奴国の首長墳墓は前方後方墳が有力で、しかも日本で3番目の大きさのものを含む、数多くの300m級~400級の痕跡が楽田村、羽黒村にある事実は、①狗奴国は濃尾平野に実在していた疎明になります。これを間接事実として②邪馬台国は関ケ原の西側(畿内説)が有力と推認されます。
| ①歴史は勝者が作る 『記紀(古事記・日本書紀)』には、狗奴国に関する記述が一切ありません。ということは邪馬臺(ヤマト)国、もしくは黎明期の大和朝廷が狗奴国を武力で打倒した後、その威光を消し去るために、象徴である巨大前方後方墳を物理的に破壊し、同時に記録から完全に消去したことになります。 (大和朝廷は、けっして嘘はつきませんが、第一回遣隋使を無かったことにする及び、第二回遣隋使の小野妹子大使が煬帝の國書を紛失したという建前になっている事等、全てを書き残すわけでもありません) |
| ②「東西二大国家」時代が古代史に出現 3世紀から4世紀にかけての日本には、邪馬台国(あるいは黎明期の大和朝廷)の「大和連合国家群」と東海・北陸の「狗奴国と同盟諸国」という、巨大な二つの勢力が並立していた。 |
|
③軍事力では狗奴国が勝る 2. 東西巨大陣営の激突
このように、壬申の乱をみれば、当時の指揮官の取った、対狗奴国への戦略が見えてくるのです。大和朝廷による巨大古墳破壊の痕跡は、大規模な会戦(野戦)の末に滅ぼされたことを示唆しています。長期的攻城戦の末の和解でもなく、ミッドウェイの空母4隻撃沈のような、短期決戦による、決定的な敗戦だったと思われます。 |

手塚治虫先生「火の鳥太陽編」より画像引用。屈指の名作。大人になった今読む方が面白い。
大海人皇子も戦訓にしたと想定される、壬申の乱から遡ること約400年前の対狗奴国戦術について検討します。邪馬臺(ヤマト)軍の極めて有能な兵法家とは、いったい何者なのか?
魏の使者「張政」の助言による可能性が高いと考えます。三国志において、関所(要塞)を封鎖または確保し、そこを起点として複数の方面から魏への侵攻を試みた代表的な事例は、諸葛亮の北伐に見られるからです。
蜀漢が国力の差を補うために、関門という地形を利用して魏軍の移動を制限し、複数のルートから一度に侵攻する「陽動」「各個撃破」の戦術を好んだことは、三国志の読者なら誰もが知るところであって、いわんや魏の使者「張政」は同時代の人です。
横山光輝先生 -GR- THE ANIMATION 「地球が静止する日」より画像引用。「パリピ孔明」も素晴らしいが、今川監督の「悪い孔明」はキャラクターが鮮烈に動く。
| ④東西の激突の後は、「平和裏な統一国家の形成期」に入ったと思われる。 令和書籍の「記紀が伝える日本統ー」の記述を引用します。 大和朝廷が成立した当時の国内の文字資料は見つかっていませんが、「日本書紀」は、神武天皇御即位の後、第二代綏靖(すいぜい)天皇から第九代開化天皇までの間に列島内の同盟政策が進められたことを記しています。 「古事記」には、かなり詳しい系譜が書かれていて、皇室が各地の豪族と婚姻関係を結ぶことで同盟政策を進めていったことが反映されたものとの見解があります。 |
|
⑤東西文化の原型の形成 モチの形から、ダシ、カレーの牛肉・豚肉といった食文化から、人間関係までいちいちあげるとキリがありません。 |
東西文化の違いの一例。糸谷哲郎挑戦者応援のために自費でハワイに駆けつける関西棋士たち。関東の棋士には絶対にありえない関西独特の文化。目に見えない集団の力(関西文化の力)もあって森内俊之竜王(関東棋士)との初戦を制し、結果として竜王位も獲得した。【2014年の第27期竜王戦第一局ハワイ対局】


三文堂のひよこ様BLOGより画像引用。ネットの解説生中継で(関西棋士の)「アロハ―!」の登場はインパクトがあった。
https://kishikawa.doorblog.jp/archives/40782102.html
| ⑥「壬申の乱」が再解釈される 狗奴国滅亡から400年後の壬申の乱(尾張・美濃の兵力を掌握した天武天皇が近畿を制圧した事件)は、かつて滅ぼされた狗奴国の地(濃尾)の力を借りた、古の時代のリベンジ(後年の薩摩のチェスト関ケ原・長州の「(倒幕の)時は来たか?」「まだ早い」→260年後「時は来た」・会津藩出身の抜刀隊のようなもの)でした。歴史の押韻です。 |
| ⑦考古学的な「空白の4世紀」の解明 4世紀は記録が乏しく「空白の4世紀」と呼ばれますが、その真相が「大規模な内戦と、敗者の文化・古墳・記録の消却」であったと説明がつきます。 出土品のミッシングリンクが埋まり、なぜ東海地方の優れた土器文化や鉄器文化が突如として変質したのか(あるいは途絶えたのか)の答えは「王朝滅亡」となります。 |
| ⑧結論としての歴史教科書の記述 もしこれらが考古学的に証明されれば、山川の歴史教科書は以下のように書き換えられるでしょう。 「3世紀、濃尾平野には邪馬台国を圧倒する規模を誇る狗奴国が存在した。その都は尾張国の旧楽田村にあった。しかし4世紀末、近畿を拠点とするヤマト朝廷との戦争に戦略的敗北。勝者となった大和朝廷は、狗奴国の巨大墳墓をことごとく破壊し、その存在を歴史から消去した。我々が知る『日本』の形は、古代文明の破壊と再構築の上に成り立っている。」 |
…ということになりますが、皆さん、こんな①~⑧の史観が受け入れられると思いますか?とてもじゃありませんが受け入れられることはないのです。狗奴国首長墳は、引き続き無かったことになります。
なぜなら日本中、どの家庭の押し入れにも木乃伊(ミイラ)が仕舞ってあるからです。ミイラのおかげで家の平穏は保たれているのです。これにはタダのひとつも例外がありません。日本国もその例外ではないのです。我々のご先祖様がそのように選択された以上、その意思は尊重しなければなりません。今の平和そのものの日本の礎はこの意思にこそあります。
押し入れのミイラにつき、ただ放置するのは許されず、綿密な環境管理と、ときには思い出してあげることが必要です。この記事を読んで頂いた皆様にも、ふと古代に思いをはせてもらえると、古代の人々も浮かばれ、現代の平和も保たれるのではないでしょうか。
(歴代狗奴国首長と人々の魂が、楽田と羽黒の地で静かに安んじられる=(イコール)日本の平和を、記事主は願います。)
周囲には、もっとたくさんの古墳境界が見つかるはずです。中学校の隣の起(おこし)集落にも大型古墳があります。

羽黒村の高橋古墳群のひとつ、天燈塚古墳は円墳とされてきましたが、東側をみると後方部がありますので、狗奴国の前方後方墳と、この記事では結論付けます。(高橋古墳群の他の4基も前方後方墳なのでしょう)。そしてさらに東方にも400m級の前方後方墳(寺海道古墳)が確認できます。
天燈塚古墳からは家形石棺が出土しています。石棺の両側に壷や勾玉の彫刻が、蓋の上面には蛇行状の溝が施されていました。一部が羽黒小学校の校庭に保存されています。狗奴国の明確な唯一の出土物かもしれません。
http://obito1.web.fc2.com/inuyamaminami.html
天燈塚古墳に石棺があったということは、三ツ塚大塚古墳には、より巨大な石棺があったはずです。狗奴国首長墳の石棺・石室はどうなったのでしょうか?
ヒントは、やはり地名にあります。
大塚前方部の東端に「石塚」の地名があります。削平された墳墓の石棺は、おそらくこの地に打ち捨てられ、地域の貴重な採石場になったのではないでしょうか。石棺・石室・葺石が山のように積み上げられました。石塚は1700年の時を経て跡形もなく消え去りましたが、土地の記憶は残されていると解します。
記事主が首長なら、先祖代々の墳墓を見渡すことができる、星印の辺りに離宮を築きます。王宮には高い土壇や建物があり、歓待はここで行われたに違いありません。同盟諸国からやってくる首長や使者にとって巨大古墳群はさぞ壮観だったことでしょう。残念ながら昭和には既に採石場として削られています。
昭和の空中写真を見る限り、他にも大小数限りなく多くの痕跡があり、狗奴国の強大な国力と、この地域の豊かさが垣間見えます。
青塚古墳群の調査の際、青塚古墳の南西(樂田大圓)に狗奴國の環濠集落の痕跡を見つけることができました。非常に奇麗な円形がみっつ並んでいます。
したがって、付近を捜索すれば、より巨大で奇麗な円形をした環濠集落が見つかるはずです。
…北の方に画面をスクロールすると10秒で見つかりました。昭和36年の国土地理院空中写真には、北西方向に3重の環濠の痕跡が奇麗に残っています。中心地は現在の山の田公園の北側(イズミック 中部統合物流センターさん・ロックペイント㈱ 犬山工場さんの辺り)と思います。
上舞台遺跡の名称は地名から呼称していますが、現在では工業団地となって、整地されていますので、発掘調査は非常に難しいと思われます。
遺跡の成立時期ですが、平塚第2号墳の北側には多くの方形周溝墓が確認できますので、弥生時代から続く遺跡ということになります。

一枚の画像に纏めようとしたところ、めまいがしました。

環濠の半径4~500mどころではありません。仁徳天皇御陵級の巨大首長墳上舞台大塚古墳(墳丘長600m以上)も見つかりました。500~600m級の巨大古墳発見となると、1872年の仁徳天皇御陵崩落時に調査に関わった堺の絵師、柏木貨一郎さん以来、154年ぶりということになります。
環濠の中に墳丘があるのを見て「これはいったいなんだろう?」と思いましたが、どうもそれが狗奴国の文化のようです。大圓の環濠集落の内部にも、やはり墳丘があります。記事主が思うに、あの世と、この世が身近なのかもしれませんし、もしかするとお寺に門前町、お城に城下町、マクロスの周囲にマクロス・シティがあることと同質なのかもしれません。
…ということはですね、お隣の朝日遺跡にもありそうですね。ちょっと探してきます。


…普通にありました。皆様も、特に地元の方は土地感が働きますので、どうかお探しください。
さて、巨大環濠集落の中に巨大霊廟がある理由を考えてみましたが、集落の人々にも何らかのメリットがあるはずです。たとえば後方部は巨大神殿が築かれて参拝は自由。神殿前の広場は憩いの場に。そして朝市が立ち並ぶ巨大ショッピングモールがあったはずです。海外に説明する際には「要するにトライアヌスのフォルム」と言えば話は早く進むでしょう。
前方部の東端に環濠があります。これは地蔵池といいます。5歳のときに遊びに行った石田君の家の近所の地蔵池がまさか狗奴国の巨大首長墳・集落環濠の一部だったなんて、今初めて知りました。古墳時代の環濠集落の環濠が現存する例として、萱生(かよう)環濠集落・稗田(ひえだ)環濠集落がありますが、地蔵池の場合は、日本唯一、古代そのままの原風景として現存している点で、国指定史跡に指定されてもおかしくありません。1800年に渡って大切に保存して頂いた周辺集落の先祖代々様に頭が下がります。心から深く感謝申し上げます。上舞台環濠集落に古墳時代から残る数少ない現存の痕跡は、1800年間生き残った、この地蔵池だけかもしれません。そして地蔵池だけがなぜ生き残ったのか。それには意味があると記事主は解しています。
令和の現在、地蔵池は干上がっています。仮に発掘調査をするならば、必ず狗奴国の土器、そして呉の孫権の金印等、呉との関係性を示す何らかの遺物が出てきます。それが狗奴国存在の考古学的証明となるのでしょう。記事主が狗奴国の首長なら滅亡寸前、ソロモンのドズル=ザビのように正妻および室、そして子らを東方に脱出させる際、回廊のように伸びる上舞台大塚の上を通ります。前方部東端丘上から見送ったあと、迫りくるヤマトに鹵獲される前に、金印他を、真下の環濠に向けて次から次に投げ込みます。(勝てば回収すれば済む話ですから)
記事主ですら気付くのですから、当時のヤマトの人たちも当然知っているのです。大塚古墳完全破却の際に土砂は全ての環濠を埋め立てたと思いますが、現地蔵池だけは意図的に残したのでしょう。今も昔も、考えることは皆同じです。
しかし令和の現在に、1800年前と同じように、また環濠の見分・調査をするのは、いかがなものでしょうか。しないほうが鹵獲されずに池の地中に眠っているに違いない金印にも、現代の平和のためにも良いように思います。記事主としては、昭和の頃のような水量で保存を願う次第です。

昭和50年、国土地理院空中写真の地蔵池。池の南北には環濠の境界痕跡が連なります。
狗奴国の国力は記事主のキャパをも遥かに超えています。三ツ塚大塚古墳も最大で468mと、応神天皇御陵よりも巨大な可能性があります。地中レーダー探査をしてみないと、なんとも言えませんが、仁徳天皇御陵の巨大さは一説によると600m級とされますが、その巨大さの理由は、狗奴国首長墳の500m級や、600m級を凌駕するため必要に迫られての矜持だったということになり同時に、邪馬臺(ヤマト)国と大和朝廷の連続性の疏明にもなります。楽田村と羽黒村の7大古墳群は失われたものも含めると200基近くになり、規模はもちろん、墳丘の巨大さにおいても、西の百舌鳥・古市古墳群に匹敵する東の巨大古墳群となります。古墳群は沼です。調べれば調べるほど深みにはまります。
仁徳天皇御陵との比較

古代メソポタミアのジッグラト(エ・テメン・アン・キ)、ハリカルナッソスのマウソロス霊廟と共に、世界三大消滅霊廟に入ったとしても遜色ない規模といえる。
皆さんお元気ですか?出張車検.comの松山です。
まずは結論から申し上げます。
| 神宮寺の瓦は近場の登り窯で焼かれた |
| 大縣神社の奥宮の荒魂は狗奴国の神だった |
| 勝部廃寺の本殿は、狗奴国環濠集落にあった、巨大古墳後方部の居抜き物件だった |
令和8年1月に、旧丹羽郡楽田村の大縣神社神宮寺跡の現地調査、勉強会に参加させて頂く機会がありました。

現地調査は1月にも関わらず、天候に恵まれました。

神宮寺跡を下から見上げたところです。ここから実際に山頂まで登っての調査です。途中平安時代、鎌倉時代の陶器の破片や、寺院の瓦の破片を採集することができました。なんでもイノシシが穴を掘ると、新たに出てくるそうです(笑)
大縣神社(おおあがたじんじゃ)には、かつて神仏習合の時代に神宮寺(じんぐうじ)が存在していて、供僧(ぐそう)が御奉仕されていたそうです。明治の廃仏毀釈によって廃絶されました。
そこで話題にのぼったのが、原材料の粘土は扇状地で豊富に採れるとしても、いったい瓦はどこで焼かれたのか?という疑問です。
瓦は重量物であるため、可能な限り寺院の近くで粘土が採取でき、かつ燃料となる薪が手に入る丘陵地に窯を築くことが一般的でした。たとえば斑鳩・三井(みい)瓦窯跡から法隆寺までの距離は、約1.7kmです。
(記事の趣旨には逸れますが、大縣神社の大鳥居の前に前方後円墳の痕跡があります。大縣神宮寺(おおあがた-じんぐうじ)古墳と命名します。大昔に大縣神社に参拝した人々は、古墳の後円部の坂に設置された階段を「えいやっ!」と登ったのかもしれませんね。)

※前方後円墳が現存していた時代の大縣さん西正面の想像図を、Googleジェミニさんに作成してもらいました。
閑話休題。登り窯につき、記事主も、周囲2~3Kmを昭和36年の国土地理院空中写真で探してみたところ、それらしき「雰囲気」のものがありました。おそらく奈良時代当時はこのような地形で瓦が焼かれたのではないかと想像します。

令和現在の空中写真と、Googlemap画像です。


平安時代末期の東大寺再建の際には、20基以上の瓦を生産した窯が存在したと想定されています。神宮寺建設の際も、一箇所だけではなく、5~6カ所はあったはずで、その中のひとつが令和にも現存しているとすれば、歴史のロマンがあっていいと思います。※なお、もちろん私有地なので立ち入ることはできません。
大縣神社の本宮山に鎮座する社の荒魂(あらみたま)につき、冒頭で記事主は「狗奴国の神」と結論付けました。というのはこの楽田村近辺の古墳を記事主が調査したところ、大和系の前方後円墳と、狗奴国系の前方後方墳がせめぎ合う地域ということが分かったのです。https://www.rescue-119.jp/news/archives/1784
青塚古墳の倍塚と思われていた周囲の古墳群も、残らず全て前方後方墳で、長塚の西側から現・工業団地にかけては狗奴国の巨大環濠集落および、600m級の巨大古墳も発見することができました。
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1810

大縣神社奥宮の南西の奥宮古墳群と、蓮池古墳群も、全て狗奴国系の古墳です。


蓮池古墳群 昭和52年国土地理院空中写真および、特定非営利活動法人 古代邇波の里・文化遺産ネットワーク様HPより画像引用
https://niwasato.net/home/archives/7336/
以上の理由で、この地域は元々は狗奴国であって、滅びたのちに大和朝廷の神々が、大縣神社に御鎮座。狗奴国の神々は奥宮の御社に荒魂として祀られたのではないでしょうか。なぜなら出雲大社にもみられるように、大和朝廷は古くからの土地の神を完全には滅ぼさずに温存します。余談ですが、出雲大社のさらに前の土地の神様も温存されていますので、大和朝廷というよりも、日本人の知恵としたほうがいいかもしれません。
大縣神社の参道がなぜ西に向かってまっすぐ伸びているのか、古代の太陽信仰なのか。夏至冬至の関係は、その直線上にある青塚古墳、壬申の乱の頃の尾張豪族と皇室との繋がり、天照大神と伊勢神宮の関係…
大縣神社のお札を納めるエリアの奥、立ち入り禁止の区域に「この奥に伊勢神宮を望む社あり」の立て看板がありますが、狗奴国と大和朝廷とのせめぎ合いの結果、奥宮という小さな御社に封印された荒御魂の「伊勢神宮の神々にも匹敵する巨大かつ強大さ」を考えると、すべては一本の線で繋がってくるのです。
大縣神社神宮寺跡の現地調査、勉強会の折、勝部廃寺についても話題になりました。先生方から聞いた話によると、工業団地には奈良時代~鎌倉時代に勝部(かちべ)廃寺があったということです。どうして工業団地の辺りに大規模寺院が?と疑問に思いましたが、狗奴國の環濠集落・600m級の巨大古墳があったとすれば納得ができます。「石山本願寺→大阪城」「江戸城→皇居」のような超が付くほど優良居ぬき物件だったというわけです。平安時代において仏教寺院建築は権威権力の象徴でもあったのです。そしてこの近辺は狗奴国の隆盛を支える基盤となる程に豊かな土地でした。
勝部廃寺の場所がやや不明とされていますが、昭和32年の国土地理院空中写真で検証すると、上舞台大塚古墳後方部跡にあったのかもしれません。強固な地盤により巨大建築の重量を支えるのに適し、自然災害にも強い場所だからです。記事主なら迷わず、ここを選びます。(たとえば石山本願寺の本堂があった場所ですが、豊臣秀吉が築いた大坂城の本丸付近、特に現在の大阪城本丸にある金明水井戸屋形や天守閣の南側一帯と推定されています。本堂→本丸。逆もまた然りです。)
近辺の地名に残る「上舞台」ですが、こうして空中写真で確認してみると、土地が舞台状になっていることわかります。11世紀の「末法思想」の流行を背景に、極楽浄土を現世に再現するような建築様式が好まれました。 阿弥陀池と御本堂も、きっとそのような景観だったことでしょう。
勝部廃寺につき、後方部に存在したと思われるのはあくまで御本堂であって、(出土物から)敷地は広範囲にわたっていたと考えられます。
(そして勝部廃寺の瓦の一部は官林瓦窯跡で焼かれたとされますが、多くは神宮寺と同じ、楽田の登り窯で焼かれたのかもしれませんね)
https://www.rescue-119.jp/news/archives/1784
↑こちらの記事のスピン・オフになります。
これが先に述べた、古墳時代研究の歴史上の価値(先駆的事例)に相当するのです。すなわち、前方後方墳の□と□の形状、目に見える真実を①認識して②言語化し、③近代以降新たに文字記録として後世に残した日本で最初の人物は松山鶴吉(世襲名は松山忠左衛門)だったことを意味します。「島根県の二子塚古墳が既にある」といえばそれまでですが、塚田博士によれば、前方後方墳の考古学的に確実な文献は、大正14年4月に刊行された島根県史・第4巻とされます。(同巻の執筆担当:野津左馬之助氏)。大正5年当時の創意工夫による「コマ塚」の文字記録は、学術レベルなら10年、民間レベルでは50年先駆けていていましたが、これまでに学術的検証はされていません。そのあまりの先駆性は記事主も驚嘆しますが、「コマ塚」の記載による、墳丘形状の確認の要件は満たされているとしても、
①墳丘(人工の盛土か、自然の墳丘か)の確認
②埋葬施設(石棺)の存在、内部構造の調査
③遺物(年代測定の手がかり)
④測量調査(緯度経度の特定、精密な墳丘図の作成)
⑤発掘調査
⑥科学的年代特定
⑦考古学的な型式学的研究
以上①~⑦に加え、⑧学会におけるプロセスを踏んでいません。
学術的に検証されることがなかったのは上記や、島根県のその他さまざまな理由があると思います。大正5年の一般の人に、現代の要件をそのまま求めるのは、…と思わなくもありませんが、しかし考古学には長年積み上げてきた科学的分析によるフォーマットがあって、それこそが永続性・信頼性そのものなのです。これは法律とよく似ています。現代の民事裁判における契約や財産に関するフォーマットは、2000年前のローマ時代に原型ができていたものが、膨大な判例という歴史的な積み重ねを経て条文形成されたものです。民法192条で例えると即時取得の要件は
①動産であること
②取引行為であること
③平穏・公然であること
④善意・無過失であること
⑤占有を開始したこと ※判例上、占有改定は不可。
※推定される要件(法律上の推定)
・平穏・公然・善意: 186条1項により、占有者はこれらの要件を満たしているものと推定。
・無過失: 最高裁の判例により、188条の「占有者が占有物の上に行使する権利は適法に有するものと推定される」規定を根拠に、無過失も推定(最判昭41.6.9)。
口頭弁論において、これらの要件が尋問により証拠として採用されず、即時取得が裁判長に認めてもらえない場合、 敗訴とはいかないまでも、裁判長の心証は良くはならないでしょう。
思うに、考古学者は一人一人が、歴史の弁護士であり、検事であり、裁判官でもあるので、
(以下40行中略)
…民法風の言い回しなら’「コマ塚」の記載によって、墳丘形状の確認がされたものと推定される’のです。これで十分です。きっとあの世の曾祖父も理解し、納得していることと思います。
真意が理解されるまで110年かかりましたが、結果的に巨大古墳群・巨大環濠集落発見による狗奴国の疎明と、邪馬台国の近畿説の推認にまでつながっているです。「コマ塚」はたったの三文字ですが、三文字をあなどってはなりません。忠左さんの「創意工夫に基づく三文字はビッグバンの核(コア)に成り得る」という後世に残る好例になったと解します。